源義経 謎多きヒーローの真の姿とは?チンギスハーンと牛若丸の共通点


日本史上でも大人気の源義経。判官贔屓といおう言葉が生まれるくらい日本史の中でも有名武将です。若くして亡くなっていて、兄に死に追い込まれたというのも悲劇として日本人の心を掴むのでしょう。そんな義経、いろんな武勇伝やエピソードはありますが、今回はその風貌や伝説とされていることに着目してみます。

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容姿端麗な美男子?出っ歯の醜男??

映画やドラマでは必ずと言っていいほど二枚目俳優が演じています。それもそのはず、『義経記』には、かの楊貴妃や松浦佐用姫に例えられるような美貌の持ち主だったと記されているのです。まあ、義経が主人公なので美化しているのは当然といえば当然です。しかし、その一方で『平家物語』では「面長で色白で背の低い男で出っ歯」とか「平家のなかのえりくずよりもなお劣っている」など散々です。つまり、めったにいないくらいのブ男と書かれているわけです。もっとも平家側からすれば、一族を滅亡に追いやった男なので、このような批評は仕方ないでしょう。それにしても、あまりにもひどい書かれようです。イメージダウンも良いところです。

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では実際の義経の容貌を客観的に記した資料やその姿を描いた絵画となると実は一つも残されておらず、全く実像は不明なのです。ひたすら眉目美麗な英雄として語られていますが、だいぶ美化され過ぎていることは否定できないのかなと思います。

今なお語られる義経不死伝説

謎の多い歴史的ヒーロー義経ですが、その最大のミステリーは「義経不死伝説」ではないでしょうか。平家を滅亡させた後に兄・頼朝と対立した義経は奥州に逃れ、衣川館に潜伏していたところを義経捕縛の命を受けた藤原泰衡に襲われました。泰衡は500騎で10数騎の義経らを襲撃、義経はこれが最後と諦め妻子を殺害したあとに自らも命を絶ちました。享年31歳でした。

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しかし、義経の首が鎌倉に到着したのはなんと義経の死から1月以上も経ってからなのです。暖かい時期でもあったので、首は腐敗し、顔も判別できないくらいになっていたため、「実は義経は生きているのではないか」とささやかれるようになったのです。

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義経はチンギスハーン?

実は岩手県や青森県、北海道には、義経主従にちなむ史跡が数多く残されており、それらがもし事実であれば義経は海岸沿いに逃げたことになります。そしてさらに義経は海を越えて大陸に渡り、なんどモンゴル帝国の創始者チンギスハーンになったとも言われているのです。なかなかあり得ない話ではありますが、結構知られている伝説ですね。

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その根拠として、義経とチンギスハーンの共通点が意外にも多いことがあります。二人が同世代の人物であったことはもちろん、戦術が非常に良くにており、両者とも“笹りんどう”の紋章を使用していました。また、チンギスハーンは9本の白旗を掲げていたのですが、この白は源氏の白旗、9は義経の通称“九郎”にちなんでいるというものです。

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チンギスハーンはモンゴル帝国を築いたほどの大物なのに資料が非常に少なく、歴史に登場したのは40歳前後のときと言われており、ハッキリした年齢も不明です。生年月日さえ分かっていないのです。チンギスハーンが歴史に登場してくるまでの経緯も分からない部分が多いのです。義経が死んだとされるのは31歳、9784817406712_1Lその17年後にチンギスハーンが歴史に登場してきます。まさに同世代なんですね。

またモンゴルでは小型の弓が普通なのですが、チンギスハーンは大型の弓を使っていたそうです。日本は大型の弓を使っていたので、義経がモンゴルに渡ったのであれば辻褄が合うことになります。

いずれにしても、伝説に過ぎないのですが、もし本当紋ドル石を創建した英雄が実は日本の武士だったとしたら。。。歴史は大きく塗りかえられることになるのは間違いないですね。

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近藤勇 ヘッポコ当主だった新撰組局長


近藤勇といえば、明治維新期に京都で恐れられていた新撰組の局長です。組なのになぜ局長かというのはさておき、武闘集団のリーダーで当然コワモテのイメージではないでしょうか。実際、写真でもなかなかのコワモテで、では当時でも一般人ではなかなか近寄りがたい存在だったのではないでしょうか。

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竹刀技はからっきしだよ近藤君!

「親権を持たせると敵なし」と称された新撰組局長の近藤勇、その腕前は天才剣士・沖田総司にも劣らぬと言われたほどだったといいます。ところがこの近藤勇、なぜか竹刀技となるとからっきしだったというのです。

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新撰組の結成前、近藤は天然理心流・近藤周助の後を継ぎ、道場「試衛館」を開いていました。当時は道場やぶりで名を売ろうとする人も多く、例に漏れず試衛館も道場やぶりの他流試合を申し込まれることも多々あったのですが、竹刀技が苦手だった近藤が取った対策は、何と外部から助とを連れてくるというものだったのです。道場の当主たる近藤が、情けないにもほどがあるというものです。

近藤が助っ人を求めたのは、九段坂上三番町にある神道無念流の渡辺昇でした。道場やぶりの技量に応じて渡辺の道場「練兵館」から助っ人を頼んでいました。

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近藤と渡辺の交友関係

道場破りを撃退した後は、女性に加わった門弟たちに御馳走が振舞われました。御馳走と言っても当時のことなので、沢庵などのちょっとしたものを肴に冷酒をあおるだけなのですが、門弟たちにとってはこれでも格別だったようです。これを楽しみにしていたものも多く、助勢に行っては御馳走に舌鼓を打っていたのです。そのあとも渡辺と近藤の交友関係は継続していきました。

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しかし、渡辺昇と言えば坂本龍馬に並ぶ討幕運動の立役者です。つまり、会津藩を後ろ盾ににした佐幕派である新撰組局長である近藤とは相反する立場になるわけです。『渡辺昇自伝』によると渡辺に危機が迫ったとき近藤は渡辺に「京を去れり」と注意を促したといいます。超硬派の新撰組の、しかも局長が敵対する人物に注意を促すとは普通なら考えられません。しかも隊士には厳しい規律を守るようにさせ、破ったものは切腹というような非常に厳しい規律です。そんな中で近藤が渡辺を気遣ったというのは、逆の道を突き進んだ二人ですが、若い頃の友情は永遠に不滅だったということなのでしょうか。これは今でも通じるところがあるのかもしれませんね。

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土方歳三 幕府軍の仲間に暗殺された?


新撰組鬼の副長、土方歳三。残された写真を見るとなかなかのイケメンでファンも多く、幕末の中でも人気のある人物です。最後まで戦い続けた土方ですが、戦死ではなく暗殺されたのではないかという説があります。

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死に場所も遺体の行方も不明

「たとひ身は 蝦夷の島根に 朽ちるとも 魂は東の 君や守らん」

土方が死を覚悟して詠んだというこの歌は現実になってしまいました。15代将軍徳川慶喜による大政奉還後も新政府軍に対して徹底して抗戦を続けた土方は、北海道函館の地で戦乱中に銃弾に倒れこの世を去ったとされています。しかし、実際に土方が朽ちたとされる場所は確認されておらず、亡骸も行方不明になったままなのです。当然「土方は本当に敵の銃弾に倒れたのか?」という疑問や生存説が出てきてもおかしくありません。そんな中、浮上してきた説の中に“味方による暗殺説”も出てきたのです。

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徹底抗戦を掲げる土方は邪魔者?

敗走を続け、北海道まで追い込まれていた旧幕府軍。勝ち目のないことが濃厚なことは誰の目にも明らかで、旧幕府軍の兵士たちはすでに戦意を喪失していました。というのも局地戦の敗北だけでなく、戊辰戦争で新政府軍の勢力が一気に拡大し、味方の軍艦も次々に座礁してしまっており、ひいき目に見てもここからの逆転は難しい状態です。そんな中でも土方だけは降伏することを頑なに反対し、徹底抗戦を掲げていたのです。

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しかし、旧幕府軍の敗北はもはや明らかな状況、これ以上戦いを続けても犬死するだけと考える人たちも当然います。むしろ多数派になっていたとしてもおかしくありません。『降伏に反対する土方さえいなければ、無駄な戦争を終えることができる』と誰もが考えたのではないでしょうか。つまり、“乱戦に紛れて土方を暗殺する”計画が仲間内で持ち上がっても全くおかしくない状況だったと言えます。むしろ自然な流れなのかもしれません。

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土方が旧幕府軍の勝利と仲間を信じつつ策略を練っていた裏では「土方暗殺計画」が着々と進行していたのかもしれません。これが本当だとすると、土方は本当にたった一人で最終決戦を続けていたといえるのかもしれません。

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雑学と妄想の日本史