「戦国時代」カテゴリーアーカイブ

明智光秀 天海僧正説 山崎の合戦での死亡はウソなのか?


明智光秀は本能寺で織田信長を討ったあと、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、小栗栖を敗走中に土民に竹やりで襲われ死亡したと言われています。これが一般的な通説で事実上“史実”となってる出来事です。いわゆる光秀の「三日天下」です。

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光秀は山崎の合戦で死んでいなかった?

しかし、光秀は三日天下どころかそのあとも生き延び続けたという説は今も根強く残っているのです。江戸期に書かれた随筆『翁草』には、この時殺されたのは光秀の影武者であり、本人はそのまま美濃の美山に逃げて75歳まで生きたという説が紹介されています。また山崎の合戦から京都の妙心寺へ逃げ延びた光秀が自害しようとしたところ、寺の和尚が思いとどまらせたという逸話も残っています。これだけ色んな生存説が残っているということはもしかしたら本当に生き延びたという可能性もあるのかもしれません。

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徳川政権に君臨した天海

それでは生き延びたとすると、光秀はそのあとどうしていたのか。生存説の中でも良く語られる一説が、徳川政権において政治宗教の最高顧問を務めた天海僧正こそが光秀その人ではないかというものです。

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天海は家康から家光まで徳川三代にわたって仕え、初期の江戸幕府を支えた功労者です。若くして比叡山に入っていた天海は1608年に家康と出会い、家康の信任を得て、家康の死後も秀忠家光に対して圧倒的な影響力を誇り、日光東照宮の造営を主導しました。不思議な力を持った人物で、108歳まで生きたとされています。そんな天海が光秀と同一人物であると噂されるようになった根拠は果たしてどこにあるのでしょうか。

光秀=天海を示す暗号

手掛かりは家光の乳母で当時の江戸城内の権力を裏で掌握していた春日局にあります。大原麗子さん主演で大河ドラマにもなった人物ですね。その春日局の父親は光秀の有力家臣の斉藤利三です。初期から光秀に従い、信頼も厚く、功績も多く、有力どころか筆頭家老と言っても良いかもしれません。一説には利三の母親は光秀も妹とも言われています。いずれにしても光秀と春日局には浅からぬ関係があることが容易に伺えます。

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また春日局が家光の乳母になった経緯は元々京の粟田口で乳母募集の高札を見たからとも言われています。粟田口とは光秀の遺体がはりつけにされたとも伝えられる場所です。さすがに乳母募集は創作でしょうけど、そんな話が出てくること自体になにか因縁なり縁を感じてしまうところです。また京の慈眼寺の釈迦堂には光秀の木造と位牌が安置されていますが、天海が亡くなったときに贈られた諡号がなんと「慈眼」です。両者のただならぬ関係を何者かが伝えようとしているかのようです。

更に天海が主導した日光東照宮、ここにもなぜか桔梗の模様があるのです。桔梗の紋と言えば光秀の旗印です。明智家の家紋を徳川家の東照宮に彫り込むこと自体本来であれば不自然極まりないことです。もっとも本来の桔梗紋と若干形が異なるのでこじつけと言えないこともありませんが、“敢えて”形状を変えたと逆こじつけもできますし、この辺はキリがない話ではあります。

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本能寺は家康との共謀?

こうした伝承が伝えられる背景には光秀の出自が謎に包まれていることも関わっています。光秀は1567年に信長と足利義昭の仲を斡旋し、義昭を将軍職に擁立した功績で歴史上に初めて登場しています。これがきっかけで光秀は信長の家臣となり、異例の速さで出世していきますが、一方でそれまでの経緯は全くといって良いほど分かっていないのです。前述の登場時に光秀は40歳くらいとされているので、つまり40歳くらいまでの前半生がまったく不明なのです。美濃の明智家を血を引くとされてはいるものの、ここの正直どれほどの信憑性があるのかも不明なのです。

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一方、天海も若くして比叡山に入ったとはされますが、人生のほどんどは歴史に登場してこないのです。江戸幕府を家康が興し、5年後に突然江戸幕府の重要人物として表舞台に登場します。なにか不思議ではありませんか?年齢も光秀とほぼ同年代と思われます。

戦国時代は武将でありながら仏門に入ることも少なくありませんでした。武田信玄、上杉謙信、北条早雲などは良い例で、戦国大名ではあるものの出家し、仏門に入った証として名前も変えています。しかも光秀は教養にも非常に優れた人物だったので、光秀も仏門に縁のある人物だったとしてもまったく不思議ではありません。

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いずれにしても光秀が天海となって家康の信頼をいたとなると、本能寺の背景に家康が大いにかかわったのではないかという邪推も十分に考えられます。信長に跡継ぎであった嫡男信康を殺された家康には十分な動機もあります。もしかしたら家康と光秀の関連携はこの頃から生まれていて、十分な計画のもとに長い年月をかけて練り上げていったもの・・・。であれば非常に面白い話ですね!

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軍師官兵衛 九州制圧計画は天下を狙った最後の賭けだった?


戦国時代の名軍師と言えば、誰が思い浮かぶでしょうか?山本勘助、島左近、太原雪斎、竹中半兵衛、黒田官兵衛など多くの武将が思い浮かびます。その中でも大河ドラマで盛り上がった黒田官兵衛は今一番旬な軍師と言えるかもしれません。

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秀吉の右腕、急造軍で挙兵

徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が天下を争った戦いがありました。そう、もちろん天下分け目の戦いと言われる関ケ原の戦いですね。実はこの戦に乗じて天下を狙ったと言われる武将がいるのです。この武将こそ黒田官兵衛(如水)です。豊臣秀吉の側近として多くの功績を残した股肱の臣と言える武将です。明智光秀との山崎の戦い、九州征伐など多くの重要な合戦に参加して秀吉に勝利をもたらせてきた名軍師です。

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さて、この官兵衛、秀吉が死去した年に上洛し伏見の屋敷に居住しました。この頃に官兵衛が吉川広家に宛てた手紙には「天下の大乱が起こる」と予想していたと思わせる記述があります。この上洛は東西の情勢を読み取るためのものだったとも考えられます。そして迎えた1600年7月、三成挙兵の報せを受け取った官兵衛は領内の兵士農民をかき集めて9000人の急造軍を作り上げました。当時の黒田家は中津12万石程度、しかも嫡子長政が主力を連れて関が原に出向いていたため、ほとんど軍を編成できるような状態ではなかったはずです。官兵衛は今まで節約して溜めてきた財を粋に放出し、徴兵したと言います。それが9000人なので、官兵衛の情勢の読みは的確かつ、準備も万全だったのでしょう。官兵衛の目論見は大戦によって両軍が疲弊したところを狙うつ作戦だったのです。

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長期戦になるはずが・・・

1600年9月、居城の中津城を出た官兵衛は5日足らずで豊前全土をを制圧、そのまま豊後へ兵を進め、大友軍を撃破、豊後での主導権を手中に収めました。そんな折に思わぬ誤算が発生しました。長引くと思われた関ケ原の戦いがわずか半日で終わってしまったのです。戦いの前に双方が準備した兵力や兵糧からすれば、そんなに早い決着は誰しも予想していなかったことでしょう。

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西軍敗報を受けた官兵衛は、家康に対抗できる力を付けることに方向転換します。家康に領地切り取り次第を申し入れ、西豊後の諸城を次々に陥落させ、筑前、筑後、肥後にまで進撃ていきました。九州最大勢力の島津義久討伐へ向かった際には、加藤清正、鍋島直茂、立花宗茂らも官兵衛軍に加わっており、4万を超える兵力になっていました。そうそうたる顔ぶれです。しかし、家康と島津義久の和議成立による停戦命令を受け、矛を収めて居城に帰還しました。

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虚しく散った最後の賭け

関ケ原の戦いの後に吉川広家に宛てた手紙には、「戦いがあと1か月も続いていれば中国地方にまで攻め込んで華々しい戦いをするつもりだったが、家康の勝利が早々と決まってしまったために何もできなかった」と記しています。九州を制圧し、中国地方まで勢力を伸ばせば、東西の勝利者に対抗できると思っていたのでしょう。実際、それだけの勢力があれば十分可能だったかもしれません。

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一方、東軍で大活躍を治めた嫡子長政は備前52万石を与えられ、悠々と凱旋。12万石から52万石ですから、破格の出世です。しかし、天下を狙っていた官兵衛はそんな長政に八つ当たりをしたという説があります。

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小早川秀秋 優柔不断、無能の評価は間違い?


小早川秀秋と言えば秀吉の血縁なのに関ケ原では東軍に寝返った武将として有名です。関ケ原の戦いの最中に西軍を裏切り、東軍に勝利をもたらせたのですから。その印象が強いためか愚鈍で卑劣な裏切り者というレッテルを貼られてしまっています。しかし、近年になって実は有能な武将だったのかもしれないという説が浮上しているのです。

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政治面では改革に積極的

まず実績として残っているのは政治面です。関ケ原の後岡山城に入場した秀秋は、急速に近代化を進めました。わずか20日で完成させた外堀“二十日堀”のほか、検地の実施、寺社領の再整備などその治績は意外なことに非常に多岐にわたり数も多いのです。しかし、不運にも在封わずか2年足らずで没してしまったため、大きな評価を得るには至りませんでした。

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躊躇したのも優れた戦術眼かも

kuroda戦の面では総じて評価が低い秀秋ですが、それも疑問が残る部分があります。秀吉の朝鮮出兵に参陣した際に秀秋は自ら敵陣に斬りこんで10以上の首級を挙げたのですが、これを秀吉に「大将として軽率である」として叱られ、領地を没収されてしまいます。秀吉の言うことはもっともではあるのですが、この時秀秋は16歳前後です、若くして勇猛果敢に戦ったと評価されても良いところです。秀秋も血気盛んに戦って意気揚々としていたところに、大叱責ではかなり気勢をそがれたことでしょう。

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また関ケ原においては東軍に寝返るのをためらい、家康がしびれを切らして鉄砲を秀秋の陣に撃ち込み、それでやっと秀秋が決断して行動したとなっています。しかし、秀秋が寝返りを躊躇したのは、西軍が疲弊するのを待っていたとは考えられないでしょうか?大奮戦していた大谷吉継の側面を突いたことで西軍が浮足立ち、寝返る諸将も相次ぎました。結果としては大成功です。もし早々に寝返っていたら、西軍としても戦い方を変えますし、もしかしたら被害の小さい時点で見切りをつけ、退却もあったかもしれません。そうなると西軍の壊滅的な敗北とはならず、東西軍の緊張はもっと長期化したかもしれません。東軍の勝利は秀秋の寝返りによるものが大きな要因ですが、大勝利はその寝返るタイミングだったと言っても過言ではありません。もし、これを計算していたとしたら無能どころか非常に高い戦略眼を持った武将と言えますよね。

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生涯たった2度の戦なのです。この結果から秀秋が無能愚鈍と判断するのは早計過ぎる気がしますね。

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