「室町時代」カテゴリーアーカイブ

一休さん トンチを利かせた教えとは?


「このはし渡るべからず」「屏風の虎」などのトンチで有名な一休さん、アニメにもなっているので、非常に有名なお坊さんです。もしかしたらお坊さんとしては日本一有名かもしれませんね。この一休さん、実在の人物で、一休宗純と言います。実際の一休さんはどんな人物だったのでしょう?

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仏教での禁止行為を繰り返し・・・

th49ZLDLK1一休さんの愛称で知られる臨済宗大徳寺派の禅僧・一休宗純。一休さんと言えば大きな目にクリクリ坊主、機転の利いた可愛い小僧が目に浮かびます。しかし、実際には風変わりな格好を好み、“奇言奇行”を繰り替えす相当な変わり者だったのです。肖像画でも坊主頭であるはずの禅宗で髪が伸びていますね。一休は僧でありながら、木刀を差して街を歩き回り、仏教で禁じられている飲酒や肉食、また女犯も平気で犯したと言います。しかも隠れて行うわけでなく、公然と行ったのです。まさに破戒僧と言えるようなお坊さんだったのです。しかし、一休が敢えて衆人たちの目に触れるように破戒行為をしたのには、ある狙いがあったのです。そこに一休がただの変人で終わらなかった理由があるのです。

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ちなみに女犯とは漢字から見ると嫌がる女性を無理やり手籠めにしたようなイメージを持ちがちですが、違います。仏教でいう女犯とは「戒律によって女性との性行為を絶たねばならない仏教の出家者が、戒律を破り、女性と性的関係を持つこと」です。決して今でいうような犯罪行為ではないので、一応一休さんの名誉のため(?)に補足しておきます。

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変態行為が共感を呼ぶ

当時、京都五山の禅僧たちには権力におもねり、五山文学などにうつつを抜かす風潮が蔓延していました。まさしく、仏教の形骸化が懸念されていたのです。また表面だけは“いい顔”をして裏では堕落・退廃した生活を送る虚飾や偽善に満ちた禅僧が増え始めていたのです。こうした状況を目にした一休は、自身が“乱れた行為”を人目に晒すことで、堕落した禅僧たちを痛烈に批判したのです、そしてこのままでは仏教が風化してしまうということを、身をもって僧たちに知らしめたのです。

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少し間違えれば“変人”とも思われかねない行動を仏教の伝統を守るために堂々と行った一休。この形式にとらわれない人間性が民衆の共感を呼び、のちにかの有名な『一休頓智話』を生み出したのです。

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死にとうない

一休が死ぬ前に最後に残した言葉は『死にとうない』と言われてます。そもそも仏教とは“死後をより良いものにするための思想“とも言えます。つまり、死ぬことで新しい素晴らしい世界が開けるといった教えもあるのです。天国や地獄と言った概念もこの観念から来ているとも言えます。そんな仏教に帰依したお坊さんである一休が、自らを曝け出し、死ぬのが怖いと言ったのです。衆人たちに対して“人間の死”に対して考えさせられる問いかけの意味もあったと考えるのは深読みし過ぎでしょうか・・・

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慈照寺銀閣 なぜ輝いていないのか?銀箔がないのに銀閣?


足利氏の室町時代のなかで、金額時と銀閣寺と言えば時代を代表する建物ですね。教科書にも出てくる非常に有名な建物です。北山文化・東山文化という文化の中でそれぞれの文化を象徴する建物と言えるでしょう。

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銀箔が貼られていない銀閣寺

「足利義満の金閣寺があれほど美しく輝いているのだから、足利義政の銀閣寺もさぞ素晴らしいことだろう」知らない人が思いがちな考え方ですよね。かくいう私だって名前を聞いただけでどっちもピカピカに輝いていると思い込んでいた時期がありました。しかしそんな考えで銀閣寺に行くと、気抜けしてガッカリすること必至です。銀閣寺はまったく輝いていないのですから。では銀閣寺には銀箔が貼られていないのでしょう?ちょっと不思議と思いませんか?

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現在の形こと完成系と思うべし

義政が銀閣寺の造営に着手したのは1482年のことです。ところが「応仁・文明の乱」の直後ということもあって、財政難が続き、なかなか工事は進みませんでした。2年後に禅室の西指庵ができ、翌年には持仏のある東求堂がようやく完成、そして観音殿が完成し、銀閣寺の上棟式が行われたのは、1489年で着手から実に7年後のことでした。

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こうした経緯から「義政は金閣寺に対抗して銀箔を貼るつもりだったが、財政難のため実現しなかった。未完成のまま現在の形となった」とする説が有力です。実際にそう聞いたり習った人も多いことでしょう。もちろん私も、中学時代に授業では先生がこぼれ話みたいな感じで同じことを話していた記憶があります。しかし、実は“銀箔を貼る予定だった”という記録はどこにも残されていないのです。後世の人が勝手に作り上げた想像に過ぎない可能性があるのです。

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事実、義満が建てた金閣寺は義政にとっての政庁でもありました。一方で、銀閣を含む東山山荘からは政治からの避難場所、いわば避暑地だったと言います。現代風に言えば、別荘とでも言えばイメージしやすいかもしれません。しかも、『銀閣寺』の名称は攻勢になってから付けられた俗称に過ぎず、もともとは2階に観音像が安置されていることから、観音殿と言われていたのです。

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ということは義政は最初から銀箔を貼るつもりなど全くなかったと考えるべきで、そもそも銀箔など必要がなかったと言って良いのではないでしょうか。そもそも東山文化は豪華絢爛な北山文化と異なり、質実剛健・質素な文化として定着していますので、そんな時代背景の中で銀箔を貼る必要はなかったのではないかと考える次第です。

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もしかしたら、義政はそんな時代の中でも、本当に金閣寺に対抗しようとした可能性はなきにしも非ずですが、ちょっと無理があるのかな、というのが私の考えです。皆さんはどう考えますか?

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戦国時代を考える2


戦国時代は、日本全国を群雄が割拠して天下統一を目指し合って争った戦乱の時代のことをいいます。

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戦国時代の初期には、多くの権力者が日本の各地に大小さまざまな国を乱立させていました。この状態のことを群雄割拠と言います。sample2_bigそして争いの末、生き残って徐々に勢力を広げていった権力者が、後に大名と呼ばれました。特に群雄がひしめいていたのが関東から中部地方だそうです。当初は徳川家康は今川家の配下で、豊臣秀吉は織田家の配下に過ぎませんでした。戦国時代をいつからいつまでとするのは色々な説があります。一般には応仁の乱のあった1467年から、徳川家康が幕府を開き、豊臣家を滅ぼした1615年までと言われています。(ただし私は北条早雲の伊豆侵攻を始まりとする説派です)応仁の乱とは、その頃の2人の権力者が地位を巡って京都で争った戦いです。(この乱については別記事にも書いてます。応仁の乱1応仁の乱2)大迷惑な事に京都の市街地で戦ったため、京の都は大変なことになったそうです。

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それに対して何も出来なかった当時の最高権力機関の室町幕府の力も弱体化してしまいます。その頃は、あまりの貧しさと重税に耐えかねて農民が各地で一揆を起こしていて、世の中も大変なことになっていきました。各地の権力者や武士達は幕府に不満を募らせて、独立して動くようになりました。1532_img05一部地域では、農民と僧侶が結託した一向一揆が起こり農民に国が占領されました。すると、ますます各地の一揆は激しさを増し、日本全国が乱れまくります。各地の権力者はそれを利用して鎮圧して、自らの勢力を固めました。幕府にそうした動きを止める力はなく、こうして戦乱の時代が幕を開ける事となります。

しかし、初期の戦国時代は各国の規模や合戦も小規模だったので、戦国時代としては取り上げられていません。つまり、時代が目まぐるしく動き出すのは北条早雲による伊豆侵攻からってわけです。各地の力をもった武将たちがこの早雲の下剋上を機に虎視眈々と力を狙いだしたのです。だから私は早雲伊豆侵攻を始まりとして捉えてるんです。

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