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日本史が大好きです。ただし戦国に偏ってます。最近歴史から離れてましたが、また熱が復活してきました。せっかくなのでいろんな時代を勉強しながら知りえたこと思ったことを発信したいです。城いきたい・・・

孝明天皇 死の裏に岩倉具視の影が?


孝明天皇は江戸時代日本近代化直前の天皇です。時代の変遷期に在位しましたが、36歳と若くして崩御してしまっています。一般的には病死とされていますが、実は孝明天皇は暗殺されたのではないかという説があるのです。今回の記事は一般的な歴史的事実と反しているものです。あくまでも“岩倉陰謀説”を元を元にしていますので、その点ご理解くださいませ。

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健康だったはずの孝明天皇

孝明天皇が即位したのは12代将軍徳川家慶の在位中のことです。即位時に孝明天皇はわずか16歳、政治経験が乏しいままに安政の大獄や桜田門外の変など大事件が起こり、動乱の時代を駆け抜けることになります。公武合体などの推進を行い、天皇として尽力しました。孝明天皇の多忙さに周囲は新郎や体調を心配しましたが、孝明天皇はいたって健康だったと言います。そんな孝明天皇が急な発熱で倒れてしまったのです。原因は天然痘と発表されました。すぐに治療措置が取られ、その甲斐あってか孝明天皇の症状は順調に回復し始めました。ところが症状が一変、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。

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波紋を呼んだ孝明天皇の死

あまりに急な出来事だったため孝明天皇は何者かに暗殺されたのではないかという『暗殺説』が囁かれたのも無理はないといったところでしょうか。「誰が何のために?」「孝明天皇の死で一番得をするのは?」暗殺を考える際に考える基本的なことですね。これらを考えると一人の人物が浮かび上がります。後に王政復古の大号令で知られる【岩倉具視】です。大河ドラマ「せごどん」では鶴瓶さんの怪演が話題になっていますね。

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岩倉はかつて公武合体論者でしたが、世間が討幕モードになるとあっさり尊王攘夷に転向、これが結果的に孝明天皇との関係に決裂を招くことになってしまったと考えられます。孝明天皇が在位している限り岩倉の出世は難しいわけです。そう考えた岩倉が孝明天皇の暗殺を企てたとは考えられないでしょうか?

明治天皇に変わって岩倉は大出世

孝明天皇から明治天皇に変わると岩倉は一躍大出世をします。孝明天皇が在位していればあり得ない展開であるがために、更に“岩倉による暗殺説”を盛り上げてしまっています。

岩倉にはもう一つ疑惑が向けられているものがあります。『天皇すり替え説』です。睦仁親王が明治天皇になった際に別の者に差し替えられたというものです。にわかに信じられませんが、それを示すように即位前と即位後で天皇はまるで別人のようなのです。例えば睦仁親王は天然痘を患っており、顔面には天然痘特有の後遺症があったが、明治天皇の顔にはそれが見られないのです。また、虚弱体質であったという幼少期に対し、即位後は側近のものを相撲で投げ飛ばすほど体力があったとも言われます。更に「字が下手、政務に無関心、乗馬の記録がない」という睦仁親王に対し、明治天皇は真逆の要素を持っているのです。もちろん人は変わることができるので、努力して変わった可能性はありますが、あまりにも変わりすぎといった感は拭えないかもしれません。

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天皇はすり替えられていた?

では一体誰にすり替えられていたのか?その人は南朝の末裔である大室寅之祐とされています。これが本当であれば、つまり“北朝”の子孫である睦仁親王に代えて“南朝”の大室が即位したということになります。これにより北朝系に仕えていた徳川家や松平家は新天皇にとっては『逆賊』になってしまい、当然討幕に傾きます。これが新政府にとって江戸幕府を一一掃する口実となり、戊辰戦争が起きたとも考えられます。岩倉は天皇をすり替えることによって狙い通りに旧体制を完全に崩壊することに成功したということです。

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当時人々は噂を耳にしては真相を確かめようとしましたが、明治に入ると皇室のプライベートやスキャンダルを公言することはタブー化されてしまいました。岩倉は世間や周囲の追及をうまく免れたのです。

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明智光秀 天海僧正説 山崎の合戦での死亡はウソなのか?


明智光秀は本能寺で織田信長を討ったあと、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、小栗栖を敗走中に土民に竹やりで襲われ死亡したと言われています。これが一般的な通説で事実上“史実”となってる出来事です。いわゆる光秀の「三日天下」です。

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光秀は山崎の合戦で死んでいなかった?

しかし、光秀は三日天下どころかそのあとも生き延び続けたという説は今も根強く残っているのです。江戸期に書かれた随筆『翁草』には、この時殺されたのは光秀の影武者であり、本人はそのまま美濃の美山に逃げて75歳まで生きたという説が紹介されています。また山崎の合戦から京都の妙心寺へ逃げ延びた光秀が自害しようとしたところ、寺の和尚が思いとどまらせたという逸話も残っています。これだけ色んな生存説が残っているということはもしかしたら本当に生き延びたという可能性もあるのかもしれません。

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徳川政権に君臨した天海

それでは生き延びたとすると、光秀はそのあとどうしていたのか。生存説の中でも良く語られる一説が、徳川政権において政治宗教の最高顧問を務めた天海僧正こそが光秀その人ではないかというものです。

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天海は家康から家光まで徳川三代にわたって仕え、初期の江戸幕府を支えた功労者です。若くして比叡山に入っていた天海は1608年に家康と出会い、家康の信任を得て、家康の死後も秀忠家光に対して圧倒的な影響力を誇り、日光東照宮の造営を主導しました。不思議な力を持った人物で、108歳まで生きたとされています。そんな天海が光秀と同一人物であると噂されるようになった根拠は果たしてどこにあるのでしょうか。

光秀=天海を示す暗号

手掛かりは家光の乳母で当時の江戸城内の権力を裏で掌握していた春日局にあります。大原麗子さん主演で大河ドラマにもなった人物ですね。その春日局の父親は光秀の有力家臣の斉藤利三です。初期から光秀に従い、信頼も厚く、功績も多く、有力どころか筆頭家老と言っても良いかもしれません。一説には利三の母親は光秀も妹とも言われています。いずれにしても光秀と春日局には浅からぬ関係があることが容易に伺えます。

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また春日局が家光の乳母になった経緯は元々京の粟田口で乳母募集の高札を見たからとも言われています。粟田口とは光秀の遺体がはりつけにされたとも伝えられる場所です。さすがに乳母募集は創作でしょうけど、そんな話が出てくること自体になにか因縁なり縁を感じてしまうところです。また京の慈眼寺の釈迦堂には光秀の木造と位牌が安置されていますが、天海が亡くなったときに贈られた諡号がなんと「慈眼」です。両者のただならぬ関係を何者かが伝えようとしているかのようです。

更に天海が主導した日光東照宮、ここにもなぜか桔梗の模様があるのです。桔梗の紋と言えば光秀の旗印です。明智家の家紋を徳川家の東照宮に彫り込むこと自体本来であれば不自然極まりないことです。もっとも本来の桔梗紋と若干形が異なるのでこじつけと言えないこともありませんが、“敢えて”形状を変えたと逆こじつけもできますし、この辺はキリがない話ではあります。

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本能寺は家康との共謀?

こうした伝承が伝えられる背景には光秀の出自が謎に包まれていることも関わっています。光秀は1567年に信長と足利義昭の仲を斡旋し、義昭を将軍職に擁立した功績で歴史上に初めて登場しています。これがきっかけで光秀は信長の家臣となり、異例の速さで出世していきますが、一方でそれまでの経緯は全くといって良いほど分かっていないのです。前述の登場時に光秀は40歳くらいとされているので、つまり40歳くらいまでの前半生がまったく不明なのです。美濃の明智家を血を引くとされてはいるものの、ここの正直どれほどの信憑性があるのかも不明なのです。

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一方、天海も若くして比叡山に入ったとはされますが、人生のほどんどは歴史に登場してこないのです。江戸幕府を家康が興し、5年後に突然江戸幕府の重要人物として表舞台に登場します。なにか不思議ではありませんか?年齢も光秀とほぼ同年代と思われます。

戦国時代は武将でありながら仏門に入ることも少なくありませんでした。武田信玄、上杉謙信、北条早雲などは良い例で、戦国大名ではあるものの出家し、仏門に入った証として名前も変えています。しかも光秀は教養にも非常に優れた人物だったので、光秀も仏門に縁のある人物だったとしてもまったく不思議ではありません。

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いずれにしても光秀が天海となって家康の信頼をいたとなると、本能寺の背景に家康が大いにかかわったのではないかという邪推も十分に考えられます。信長に跡継ぎであった嫡男信康を殺された家康には十分な動機もあります。もしかしたら家康と光秀の関連携はこの頃から生まれていて、十分な計画のもとに長い年月をかけて練り上げていったもの・・・。であれば非常に面白い話ですね!

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一休さん トンチを利かせた教えとは?


「このはし渡るべからず」「屏風の虎」などのトンチで有名な一休さん、アニメにもなっているので、非常に有名なお坊さんです。もしかしたらお坊さんとしては日本一有名かもしれませんね。この一休さん、実在の人物で、一休宗純と言います。実際の一休さんはどんな人物だったのでしょう?

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仏教での禁止行為を繰り返し・・・

th49ZLDLK1一休さんの愛称で知られる臨済宗大徳寺派の禅僧・一休宗純。一休さんと言えば大きな目にクリクリ坊主、機転の利いた可愛い小僧が目に浮かびます。しかし、実際には風変わりな格好を好み、“奇言奇行”を繰り替えす相当な変わり者だったのです。肖像画でも坊主頭であるはずの禅宗で髪が伸びていますね。一休は僧でありながら、木刀を差して街を歩き回り、仏教で禁じられている飲酒や肉食、また女犯も平気で犯したと言います。しかも隠れて行うわけでなく、公然と行ったのです。まさに破戒僧と言えるようなお坊さんだったのです。しかし、一休が敢えて衆人たちの目に触れるように破戒行為をしたのには、ある狙いがあったのです。そこに一休がただの変人で終わらなかった理由があるのです。

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ちなみに女犯とは漢字から見ると嫌がる女性を無理やり手籠めにしたようなイメージを持ちがちですが、違います。仏教でいう女犯とは「戒律によって女性との性行為を絶たねばならない仏教の出家者が、戒律を破り、女性と性的関係を持つこと」です。決して今でいうような犯罪行為ではないので、一応一休さんの名誉のため(?)に補足しておきます。

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変態行為が共感を呼ぶ

当時、京都五山の禅僧たちには権力におもねり、五山文学などにうつつを抜かす風潮が蔓延していました。まさしく、仏教の形骸化が懸念されていたのです。また表面だけは“いい顔”をして裏では堕落・退廃した生活を送る虚飾や偽善に満ちた禅僧が増え始めていたのです。こうした状況を目にした一休は、自身が“乱れた行為”を人目に晒すことで、堕落した禅僧たちを痛烈に批判したのです、そしてこのままでは仏教が風化してしまうということを、身をもって僧たちに知らしめたのです。

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少し間違えれば“変人”とも思われかねない行動を仏教の伝統を守るために堂々と行った一休。この形式にとらわれない人間性が民衆の共感を呼び、のちにかの有名な『一休頓智話』を生み出したのです。

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死にとうない

一休が死ぬ前に最後に残した言葉は『死にとうない』と言われてます。そもそも仏教とは“死後をより良いものにするための思想“とも言えます。つまり、死ぬことで新しい素晴らしい世界が開けるといった教えもあるのです。天国や地獄と言った概念もこの観念から来ているとも言えます。そんな仏教に帰依したお坊さんである一休が、自らを曝け出し、死ぬのが怖いと言ったのです。衆人たちに対して“人間の死”に対して考えさせられる問いかけの意味もあったと考えるのは深読みし過ぎでしょうか・・・

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