秋山虎繁(秋山信友) 意外な血筋とは?


戦国時代は実に多くの武将が存在しておりました。後世の時代の歴史の教科書や資料等に掲載されているほどの有名な武将もいれば、その陰で活躍してきた意外と知られていない武将も数多く存在いたします。その中の一人、秋山虎繁について説明いたしましょう。とはいえ、実はこの名前で呼ばれだしたのは最近で、一般的には秋山信友と言われていた武将です。近年の研究で虎繁が正式な名前だったというのが判明しています。

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9ff380d4虎繁は1527(大永7)年~1575(天正3)年に生きた戦国時代の武将。あの武田信虎、信玄、勝頼の武田家三代に仕えていたとされている武将です。 まず、虎繁について語る前にざっと彼の血筋を説明いたしましょう。平安時代末期、彼のご先祖様で秋山氏の祖である秋山光朝。光朝は甲斐源氏の一族、加賀美遠光の長男として生まれ巨摩軍秋山を領したのちに秋山を名乗ったとされています。ある日、光朝は敵対していた勢力の平家、平重盛の娘を妻に迎え入れます。しかし、時代は源氏か平家かの世界…敵対していた武将の女をもらうなど非常識だったのでしょうか、光朝は源氏から排斥され没落していきます。しかし、1221(承久3)年の承久の乱にて武田信光にしたがい、後鳥羽上皇方として武功をあげて名誉回復したとのことです。

さて、話を戦国時代に戻しましょう。要するに秋山虎繁は源氏と平家という二つの血筋が体に流れているわけです。今度は彼の生きた時代を見ていきましょう。生まれた時から彼は武田家の武将として育てられます。この辺りは歴史の定めか、諸説あり詳しい出生についてはまだあまり知られていないようです。しかし、虎繁は武田二十四将として後に名をあげていきます。1550年代では美濃国苗木城や信濃国大島城にて城代を務め、さらには美濃・遠江・三河方面の軍事・外交関係に携わっていたそうです。

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時代は進み、1568(永禄11)年12月、武田氏は駿河国今川領に侵攻します。これに際し、武田氏は徳川氏と同盟を結んでいました。内容としては駿河国を武田氏、遠江国を徳川氏にする条件での同盟だったのですが、虎繁は知ってか知らずか遠江に侵攻してしまいます。これに対し徳川氏は抗議。武田氏は虎繁を撤退させますが、これを機に事実上の武田・徳川同盟は破棄となったようです。それから1571(元亀2)年2月、武田氏は領土拡大のため今度は徳川領に侵攻します。

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onnajosyu2この時、虎繁も別動隊として奥三河に侵攻し、その後は東美濃方面の軍団長として岩村城を攻略しています。このときに岩村城は信長の叔母である、「おつやの方」が女城主として城代を務めていましたが、虎繁はおつやの方を自分の正妻として迎えたと言われています。おつやの方はものすごい美貌の持ち主だったそうです。今は岐阜の地酒の名前にもなっています。

takeda-tokugawa1573(元亀4)年に武田軍は三方が原の戦いで徳川軍と激突し、完膚なきまでに徳川軍に勝利します。このとき虎繁は山県昌景とともに家康を散々に追い回し、「さても信友、武田の猛牛にも似たる恐ろしき男ぞ」と評したとされています。しかし、この戦いの後に武田信玄が病死し、武田軍は甲斐に撤退します。徳川としてはこのままでは打つ手がないところだったので、将に九死に一生をえたというところでしょう。

0146c46b信玄の死による武田軍の撤退に勢いがついた徳川氏とその同盟を結んでいた織田氏は攻勢に転じます。さらに1575(天正3)年5月21日、信玄の跡を継いだ勝頼が織田・徳川連合軍との戦い、のちにいう長篠の戦いにて大敗…ますます織田・徳川氏の勢いは強まります。当時、虎繁が城代を務めていた美濃国岩村城にも織田氏が攻めており虎繁も懸命に戦いますがついに敗北してしまいます。そして虎繁は1575(天正3)年11月21日(12月23日という説もある)、織田氏により長良川にて処刑されてしまいます。虎繁はここで亡くなってしまいますが、秋山氏はその後も生きながらえており後の時代まで子孫を残します。

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いかがでしたでしょうか?拙い文章ですが、秋山虎繁について誰かに話の話題になってくれれば幸いだと思います。

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