平手汎秀 意外に名前が知られているのに出自がイマイチ謎?


みなさんは平手汎秀という武将を知っているでしょうか?

織田信長の後見役として仕えた平手中務丞政秀の三男という説と、平手政秀の孫という説がある武将、平手汎秀(1553~1573)。戦国時代には出生が分からない武将は結構多いものですが、政秀自体は結構知られた人物です。その政秀に繋がるにも関わらず実父が不明とは不思議ですね。もっともこんなところからもマイナーな武将という感じが湧き出ていますよね。では、平手汎秀についてちょっと見てみましょう。

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08_07_02汎秀の親、もしくは祖父にあたる、平手中務丞政秀とは、織田信秀、信長の2代に仕えた武将です。信長の傅役として必ず出てくるので、政秀のほうは聞いたことがあるのではないでしょうか?うつけものと言われ素行も悪かった信長の将来を心配して自分の切腹をもって諫めた忠臣というイメージを持たれている人も多いかもしれませんね。政秀は尾張国春日井郡にあった志賀城の城主でもありました。

0067その平手政秀の長子である久秀の子、つまり政秀の孫とされている説があります。そして、その場合の母は加藤清正の姉。但し、一方で平手政秀の三男とも言われており、どうやら、この子供の説の方が合点がいきそうです。平手政秀の男子は3人。順に五郎右衛門、監物、そして甚左衛門(汎秀)となります。しかし、平手汎秀が歴史上に出てくるのは信長が本願寺と戦った石山合戦からです。そして、平手汎秀については、その名が後世に伝えられるのは三方が原の戦いに於いてとなります。

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1572年、甲斐の武田信玄が西進を開始、(一般的には上洛を目指したとも言われますが)本格的に徳川領への侵攻をし始めます。徳川家康は同盟の盟主たる織田信長に援助を求めたのですが、信長も毛利、本願寺、朝倉などの所謂信長包囲網によって思うように動けない状況となっていました。その際、信長は佐久間信盛と平手汎秀を将として約3,000名の援軍を送ったのです。

2009928118582156三方ヶ原の戦いは、武田軍の一方的な勝利に終わり、徳川・織田連合軍は敗走した。この戦いで平手汎秀は討死してしまいました。織田援軍のもう一人の将、佐久間信盛は早々に逃亡したと言われており、後に信長より折檻状を受け追放されてしまいます。その時の折檻状の項目のなかにはこの三方が原の戦いの敗走を責める条文がふくまれていました。その中身に「平手汎秀を見殺しにした」と書かれています。佐久間信盛は、三方が原の戦いの敗戦自体の責より、戦いへの挑み方が問われたのです。

Hirate_Kenmotsu's_Grave_Site一方、汎秀は戦没の地で敬われており、戦地には墓石が建てれら、平手神社として祀られていたとのことです。命を落とすのは現代の我々には非常に怖いですし、命がけで戦うのはなかなか理解はできませんが、死後に評価されて名を残すことができたという点では武将とし大成功といえるのではないでしょうか。それに武士としては名誉なことでしょうしね!

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