馬場信春 武田四天王「鬼美濃」の真実とは?


天下人・徳川家康の側近として仕え、生涯50度にわたる戦場に出陣し、一つのかすり傷も負わなかった豪勇の武士としてしられる本多平八郎忠勝。昨年の大河ドラマ「真田丸」でも藤岡弘、さんが演じ、史実のイメージ通りな剛毅な武士ぶりが描かれ巷で有名となりましたが、実は彼を凌ぐ程の豪傑が甲斐武田家臣にいたのです。

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00131_m男の名は馬場美濃守信春。江戸時代に出版された武田3代にまつわる編纂書物「甲陽軍艦」では山県昌景、内藤昌豊、高坂昌信と共に武田四天王として列せられる程の重臣だったと伝わります。信玄の父・信虎の代より三代に仕え、長篠合戦(1575年)で戦死するまで数える事70以上の合戦に参じ、その間一度のかすり傷を負ったこともなかったことから、「不死身の鬼美濃」なる名誉の称号を得ます。後世においては武田を支えた名将として極めて高い地位に列せられる事の多い信春ですが、彼自身は譜代の家臣という事でなく、代々が譜代衆として信虎に仕えていた飯富家当主や虎昌や虎昌の実弟・山県昌景に比べるととてつもなく低い地位からのしあがってきた武将でもありました。005武田領内の地侍集団「武川衆」の一武将(元は教来石景政と名乗ってた)が彼のスタート位置であり、信玄の信濃侵攻では各地で先鋒をつとめ、信玄が事実上の信濃の国主となってはじめて、継承者不在となっていた譜代衆の馬場氏の名跡継承を認められ、譜代家臣の仲間入りを果たしたのです。

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51c5b896c79d299d49dcee18b3e2e8b6この時、信春は44歳。中々遅咲きですね。華々しい渾名の裏には底知れぬ苦労を経たということでしょう。後に信玄の駿河侵攻に際して、当然の如く、信春も先鋒として出陣し、最終的に大名としての今川氏を滅亡させるに至るのですが、今川の居城が落城するに際して、信春の人となりを表すエピソードがあるんです。落城の際に、今川が代々培ってきた金銭、文化人として名高い義元、氏真親子が収集してきた財宝の類いが焼失するのを恐れて家臣にそれらを運びだすよう命じると、それを聞いた信春は信玄のもとにすっ飛んできてその行為を止めます。曰く「財宝なんぞに拘れば貪欲な武将として末代までの笑い者となりますぞ」とのこと。さすがに信玄も思いとどまり「さすが俺より7歳も年上。重みがあるのう」と感嘆したようです。家臣として高みを極めるためにただならぬ苦労をしてきた信春にとって財宝などはさして重要でもなく、おのが武辺と主君の名誉を重んじたのでしょう。実に武骨なエピソードですね。

img_5信玄死後は四郎勝頼に仕えますが、側近である跡部勝資らの諫言によって遠ざけられます。長篠の戦いも地の利や戦力差を理由に頑なに撤退を進言しますが、受け入れられずに結果、武田の大敗で終戦を迎えます。同じ四天王の山県、内藤も戦死して、信春も勝頼の撤退を見守った後に殿として、織田・徳川連合軍に立ちはだかり獅子奮迅の活躍をみせ、そして戦死します。 これには敵方の信長も「馬場美濃、手前の働き見事なり」と最大限の称賛をおくったそうです。「不死身の鬼美濃」馬場信春。忠義に生きた豪傑の物語です。

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