武田信繁 「まことの武将」として武士の鑑となった男はどんな武将だった?


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「甲斐の虎」の異名をもち、現代においてもなお英雄として人々に語り継がれる名将・武田信玄。 甲斐という、御世辞にも石高に優れたとはいえない土地から、「風林火山」の旗を掲げて騎馬軍団を率いる様は、多くの英傑たちを震撼させてきました。

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24shouzu2そんな信玄の創業を支えたのが武田二十四将とも謳われる知略や武勇に優れた豪傑たちをはじめとする家臣団でした。「人は石垣、人は城、情けは味方、仇は敵なり。」 という信玄の有名な故事は、家臣たちに全幅の信頼を寄せている信玄の気持ちを最も鮮明に表現したもの、と言えるのではないでしょうか。また武田家にはそれだけ強い結束力があったことも伺い知れます。その中でもとりわけ、信玄が最も信頼していた人物こそが武田左馬助信繁です。信繁は信玄麾下の家臣団の中で圧倒的な存在でした。血を分けた弟であること、知勇兼備の武将であること、家中からの信頼も厚いこと、信玄に対して揺るぎない忠誠を誓っていること。信玄が絶大な信頼を置くのも当然と言えば当然ですね。

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img_0信繁は1525年に当時の甲斐の国主であった信虎の次男として生まれます。この時すでに武田太郎(信玄)は生まれているわけですが、なんと父・信虎は利発な嫡男・太郎(信玄)よりもむしろ、聡明な次男・次郎(信繁)を寵愛し、太郎を廃嫡してまで次郎を次期武田家当主に推す動きを見せていたと広く語られています。ただし、この件に関しては私は違うと思いますが、一般論ですのでこの記事の中では採用して話を進めます。(興味のある方は武田信玄 父信虎との関係を読んでみてください)

250px-戦国甲信越結局、1541年に晴信の策略によって、信虎は駿河・今川氏のもとに事実上の追放を余儀なくされますが、父のお気に入りであった信繁の才知は、兄・晴信にも愛されて以後は武田家の一門衆筆頭格として家中にて重きを成していく存在となっていきます。晴信による、信濃攻略でも対村上義清との戦などで大活躍すると共に信濃に居を構える国衆たちと晴信との折衝役としても活躍していきます。また自分の子や親族の子息と信濃の豪族の子女との縁組を次々と推し進めており、彼らとの血の結束を高め、信玄の勢力を磐石なものへと押し上げていきます。

つづく

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