長野業正 他家武将からも尊敬された上州の忠将とは?


室町幕府が衰退を極め、将軍や公家の力は萎え、新興勢力や国衆たちが力を持ち争いが絶えなかった戦国時代。特に甲斐の名門・武田家、相模の風雲・北条家、越後守護代・長尾家の台頭により、関東平野は激戦の地でありました。

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kantou-seiryokuzu彼らの圧迫により完全にかつての力を失っていた上州平井城主にして、関東管領職に就いていた上杉憲政は窮地際まれりとみて、上杉衰退の切欠となった河越夜戦(1546)より6年後の1552年、かつての仇敵・越後長尾家当主、長尾景虎(後の上杉謙信)の庇護を求めて越後へと下向します。主の不在、相次ぐ味方の離反、それを勢いに変えて攻めかかる北条と武田…。上州における上杉家の命運は風前の灯火とさし迫る中、1人の老将が立ちはだかります。

男の名は長野業正。minowajou12上州箕輪城主にして、上杉家中でもきっての戦上手と呼び声が高かったこの老人は、河越夜戦以降、力を失っていた主家・上杉を守らんとするため、じつに10人以上にのぼる娘婿たちと共に上州防衛に動き出します。彼の人生のハイライトはまさしくこの時代。特に後に天下に最も近いと言われていた武田を相手に回した戦こそ業正の名を世に轟かせたといっていいでしょう。信濃を攻略し、越後侵攻の足掛かりとするために上州を侵攻した武田は信玄の嫡男・義信、「甲陽軍鑑」において有名な武田四天王(山県昌景、馬場民部信春、飯富兵部虎昌、内藤昌豊)など文字通りのガチ勢でかかります。対して、業正は居城・箕輪城に在番しながらも、各地の城を防衛する娘婿たちと連携して奇襲など変幻自在の策略を用いて、武田軍を打ち破ります。1557年から始まった武田信玄による西上野侵攻作戦は業正が71歳で病没する1661年まで、6度にわたって繰り返されてきましたが、その全てを退け、ついには関東管領を引き継いだ長尾景虎(上杉謙信)の関東出兵まで持ちこたえる事に成功したのです。

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周りの豪族が悉く北条・武田に離反する中、最後まで主君への忠節を貫き、領地を守り通した業正は後世において「忠将」との評価を戴いており、またその武勇は敵将・武田信玄が「業正が生きている限り上州に手を出せん」と嘆くほどとまで言い伝えられています。またエピソードとして、戦に敗れ、故郷を追われた末に路頭に迷いこんだ真田幸隆(安房守昌幸の父、左衛門佐幸村の祖父)を食客として手厚くもてなし、幸隆の仇敵武田への帰参を後押しするなど人情味溢れる人物でもあったと伝わります。

現代社会では想像し難いことですね。ライバル会社に重要戦力を渡すようなものですから(笑)最後に業正の武骨すぎる生きざまをそのままに表現したような彼の遺言で締めくくりたいと思います。

墓は一里塚と同じような物を
我に法要は無用
敵の首を1つでも多く我が墓に添えよ

敵に降伏はするな
武運尽きたら潔く討死せよ

これが我への最大の供養
これに過ぎたる物はなし

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