応仁の乱1 


f44戦国時代を考えるにおいて応仁の乱を外すことはできません。戦国時代という一時代が始まる前に起こった乱です。教科書にも必ず出てくるので聞いたことがない人はほとんどいないのではないでしょうか。この乱を契機に日本は大きな転機を迎え、やがて戦国時代へと突入していくのですから。

スポンサーリンク
>

14417560614_ea4f834bae_o

15世紀の後半になると、将軍の権力の座は大きくゆらぎはじめていました。8代将軍の足利義政の時代には、政治・社会が混乱するなかで管領の細川勝元と四職の一人山名持豊(宗全)が幕府の実権をにぎろうとして争い、両者の対立に将軍家や管領家のあとつぎ問題がからみ、ついに1467(応仁元)年、応仁の乱がおこりました。全国の守護大名は2つにわかれ、細川方(東軍)と山名方(西軍)に大軍が集まり、京都をおもな戦場として11年間におよぶ戦いをくり広げました。やがて戦乱は地方にも広がり、各地で激戦が行われました。戦いが終わるころには、京都は足軽とよばれる雇い兵の乱暴と戦火で荒れ果てました。将軍の権威は失われ、京都で戦っていた守護大名の領国では、地元にいた守護代や国人たちに実権が移っていました。

スポンサーリンク
>

こうして、これまでの朝廷や幕府を頂点とする伝統的な秩序はくずれ、下剋上の風潮はますます強まっていきました。足軽は軽装で機動力に富んでいたので、応仁の乱のころからさかんに活躍しましたが混乱に乗じて、略奪行為におよぶものも少なくありませんでした。応仁の乱のころの京都は市街地ばかりではなく、郊外の寺院も数多く被災している点に注意が必要です。

thA1IIFZCC

応仁の乱後、畿内や北陸で地方武士である国人が一揆を結んで守護に反抗し、倒そうとする動きさえおこりました。1485(文明17)年、京都に近い山城南部の地域では山城の守護である畠山氏の一族の内紛にともない、戦いがおころうとしていました。このとき、地域の国人たちは団結して一揆を結び(山城の国一揆)、畠山氏の両軍を国外に追い出すことに成功しました。地域住民や地域の荘園領主の支持を得たこの一揆は、独自の法である国掟を定め、その後に一揆衆が幕府の支配を受け入れるまでの8年間、自治支配を実現しました。

5de4c86a

スポンサーリンク
>