室町時代 北山文化と東山文化


南北朝時代には、動乱のなかで時代の転換期を見すえた歴史書や軍記物語が書かれました。北畠親房は、南朝の皇統の正統性を論じた歴史書「神皇正統記」をあらわしました。軍記物語では、南北朝動乱をえがいた「太平記」がまとめられました。

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d2991ff4cb56655b5da788ef2980b144-500x4463代将軍の足利義満のころの文化は、義満が京都の北山の別荘にたてた華麗な金閣に代表されるので、北山文化とよばれます。このころ幕府は武家社会に広まった臨済宗を保護し、五山の制をととのえました。これは南宋の制度にならったもので、南禅寺を別格として五山の上におき、京都五山は天竜市・相国寺などの5寺、鎌倉五山は建長寺・円覚寺などの5寺でした。こうして五山を中心に、中国文化の影響を受けた文化がうまれました。五山の僧は政治・外交顧問として活動するものも多く、漢詩などの五山文学がさかんとなり、五山版とよばれる出版も行われました。

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thK501FDVV禅の境地をえがく水墨画も、このころからさかんとなりました。能も、北山文化を代表するものでした。能楽師ははやくから寺社の保護のもとに座を結成していましたが、14世紀末ころに奈良興福寺を本所とした観世座から観阿弥・世阿弥父子が出て、義満の保護を受けて芸術性の高い猿楽能を完成しました。その理念は、世阿弥の「風姿花伝」(花伝書)に示されています。観世能図は自然の松を背景にし、本物の橋のような橋掛かりをかけるなど初期の能舞台の様子がわかります。鹿苑寺金閣は、もと3代将軍の足利義満の別邸です。初層・2層が寝殿造、3層が禅宗様です。公武それぞれの持ち味を統合しています。

f_008応仁の乱後、8代将軍の足利義政は京都の東山に山荘をつくり、ここに銀閣をたてました。このころの文化は東山山荘に代表されるので東山文化とよび、禅の精神にもとづく簡素さと伝統文化の奥深いおもむきを特色としています。公家、僧侶、武家、町人など、従前にみられないほど広範な階層が参加できる場がつくられ、伝統的な公家文化と武家文化、禅宗思想を基調とした宋文化、庶民文化などが融合した文化が形成されました。

簡単に言えば北山文化は高級志向、東山文化は庶民志向と言えるかもしれませんね。

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