応仁の乱2 乱後


応仁の乱は長く続いた一連の戦い、抗争、政略などを統括した乱ですが、この乱を契機に地方のあり方も大きく変わりました。

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応仁の乱後、京都は荒れ果て生活基盤を失った京都の公家や僧たちは地方にくだり、大名を頼りました。地方の大名たちも、彼らを積極的に迎えました。対明貿易で栄えていた大内氏の城下町山口には、多くの文化人が集まり、儒学や古典の研究・出版が行われました。関東でも、15世紀の中ごろに関東管領上杉氏が足利学校を再興し、日本各地から多くの学生が集まりました。武士の子弟は、寺院で教育を受けるならわしとなり都市の有力商工業者たちや農村の指導者たちのあいだにも、文字を学ぶものがふえていきました。

また、この時代に鎌倉新仏教の各宗が各地に広まり、人びとの信仰を集めていきました。禅宗は、曹洞宗などが地方武士や民衆から支持されて、各地に広がりました。臨済宗では大徳寺派の一休宗純らが出ました。農民・商人たちのあいだには浄土真宗(一向宗)が広まり、とくに本願寺の蓮如の活動によって北陸・東海・近畿地方で大きな勢力となりました。これを背景として、各地で一向一揆がおこったのです。また、東国におこった日蓮宗はこの時代に西国方面へ進出し、とくに京都の町衆の信仰を集めました。

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信玄堤は武田信玄の治水事業のひとつです。御勅使川の流れを北にかえて釜無川の本流と衝突させ、竜王高岩とよばれる崖にぶつからせて水勢を弱め、合流点から下流2kmにわたって堅固な堤防をきずいて氾濫を防ぎました。

応仁の乱後、約1世紀にわたる戦国時代は新旧の武家勢力が交代する動乱の時代でした。将軍の権威にたよらず、実力で領国(分国)をつくりあげ、これを支配したのが戦国大名です。彼らのなかには甲斐の武田氏や駿河の今川氏のように、守護出身で戦国大名にその姿をかえたものもありましたが、越後の上杉氏のように守護代出身のものや、なかには奥州の伊達氏や安芸の毛利氏のように下剋上の風潮のなかで国人からのしあがってきた戦国大名もありました。

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