武田信玄 対外政策 ~外交1~


外交

信玄が行った外交政策は有名な所では「信長包囲網」「一向宗との協力」「同盟政策」などが有名であろう。信玄が直接行った外交ではないが、ここでは武田家発展の大きな役割を果たした甲相駿三国同盟に焦点をあててみる。

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nhk_takedashingenこの同盟の意義は武田・今川・北条の三大名が成長する契機となったことである。目的は後顧の憂いをなくし、各々の軍事目標に専念することであり、締結は天文23年(1553)である。
この年は今川と北条の間に紛争が生じた。武田は今川との交友関係から駿河に援軍を送り、北条軍と交戦するが、各大名とも本音では停戦を望んでいたため、やがて和議が起こり、不戦条約を交わすことで合意し三国同盟が締結される。この同盟会議は一般に善徳寺の会盟としてしられている。

gamersky_02origin_03_201312217107A4この会盟で各大名を結びつけたのは今川義元の軍師であり、臨済寺の住職でもある太原雪斎であると言われている。さて、三国同盟前の状況として三者に共通しているのは、それぞれが互いに脅威的な存在であるということだ。三大名とも大きな勢力を持ち、領国も隣接しあっており、過去にも幾度となく矛を交えている。三大名がどんな状況だったのか簡単に説明する。それを認識することで3大名にとって三国同盟がいかに大きな意味があったのか理解しやすいと思う。

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武田氏
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信濃平定を目前にしていたが、天文二三(1553)北信濃に勢力を持っていた村上義清が本拠の葛尾城を棄てて越後の上杉謙信を頼った。信濃平定は川中島以北を残すのみになるが、謙信との対立が表面化していた。

北条氏
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北武蔵で北条に抵抗する国人は、川越の合戦で敗退して以来対北条戦線を立てなおせないた。この隙に北条氏康は上杉憲政を攻めた。憲政は天文二一(1552)謙信を頼り越後に逃げ古河公方足利晴氏も北条に降伏した。このため北条に抵抗できる勢力はなくなり、反北条の国人を各個撃破できる状況になったが、謙信と憲政の存在が不気味だった。

今川氏
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天文一八(1549)三河の松平広忠の子である竹千代(後の家康)を人質にし、この後広忠が死去したため三河は実質上今川の支配下に入る。更に天文二〇(1551)尾張の織田信秀が死去し、「うつけ者」と評判の高かった信長が家督を相続し、今川義元にとっては西進の絶好の機会が到来していた。

各大名は三国同盟により背後の憂いをなくし、それぞれの軍事目標に専念できるようになった。関東統一を目指していた北条はともかく信玄は上洛の野望を持っており、同盟締結の時点では今川が一番得をしたように思えなくもないが、信玄が野望を棄て同盟を結んだとは思えない。この時点では謙信との対立の方が武田家にとっては憂いが大きかったということである。もしくは義元の西進が尾張平定までと捉えていたのだろう。結果的に義元は桶狭間の戦いにおいて信長に討ち取られ、12年後には着実に国力を蓄えていた信玄にも西進の機会が到来する。

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