武田信玄 対外政策 ~合戦3~


合戦

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三方ヶ原の戦い
c9f715a74f2551aa3daeb6913459893d越後の謙信を一向一揆と結ぶことで、相模の北条氏政を相甲同盟を結ぶことで、背後の憂いをなくした信玄は元亀三年(1573)十月、念願の西進を開始する。信玄は51歳であり、人生50年といわれた戦国時代においては決して若くはない。しかも労咳によって健康状態は悪かったが、長年の野望である西進すなはち上洛を目指したのである。 武田軍が西進する進路は北陸路・中山路・東海路が考えられる。このうち、北陸路には宿敵上杉謙信、中山路は家康が領国に進行する懸念があり、自ずと進路は東海路に限定される。したがって、京都に至るまでの敵は三河・遠江に勢力を持つ徳川家康と、尾張・美濃など十数カ国に勢力を持つ織田信長である。

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img1573-01この合戦は当然最初にぶつかった徳川軍との合戦である。このとき信長は、信玄を中心とする「信長包囲網」により身動き取れない状況であった。武田軍は二俣城を落とした後、浜松城から武田軍を迎え撃つために出てきた徳川軍と決戦した。武田軍は総勢約3万で魚鱗の陣、徳川軍は信長の援軍を含め約1万で鶴翼の陣であった。結果は武田軍の快勝であった。俗説だが、家康はなんとか浜松城まで逃げ帰ったものの、その途中武田軍の恐ろしさに脱糞し、それを味噌だと言い張ったという。家康はこの敗北を忘れないように自画像を描かせている。この勝利の後、武田軍は野田城を攻略したが、信玄の労咳が悪化し、行軍を続けることができなくなり、長篠まで退きかえした。これ以上の進軍は無理であったため、甲斐に退きかえすことになるが、帰国途中で信玄は病死する。享年52歳であった。

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しかし、いかに信玄と言えこの西進で上洛できるとは考えていなかっただろう。武田軍は兵農未分離の農民を中心とする軍隊である。一方、織田軍は既に兵農分離がある程度進んでいた。この時の徳川軍は信長の同盟国ではあるが、信長の庇護を受ける傘下の一大名的な立場にあり、当然信長に影響を受け兵農分離を政策として捉え、一定の基準にはあったと思われる。また、家康は領内の一向一揆に手を焼いていたので、兵農分離にむしろ積極的だったのではないかと思う。

image001更に信玄は出陣前に将の一人から「春までに合戦を終わらせてもらわないと農耕に支障が出る」と申し入れをうけている。熱心な農政家であった信玄はこれを恐らく納得し受け入れただろう。このような状況であれば、わずか数ヶ月で京まで攻め込むことができるとは考えないはずだ。したがってこの西進の本当の目的は家康が居城とする浜松城のある遠江の攻略が第一だろう。そして、それが上手く行き、春までに余裕があるようなら、次回の西進に向けて三河の豪族を手なずける所までではないか。家康の居城を攻略できたなら、三河の豪族も危機感から恐れを抱き、信玄になびくことは当然考えられる。どんなに上手く行っても支配下に置いた新領の統治もままならないまま信長との決戦に望むとは考えられないというのが私の考えである。

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