武田信玄 対外政策 ~合戦2~


合戦

スポンサーリンク
>

川中島の戦い
c0119160_2120466この合戦は北・南信濃大部分を平定したことを最大の要因として、上杉謙信との対立から派生した合戦である。というのも、信濃平定により小笠原長時と村上義清が謙信を頼り越後に落ち延びたからである。 武田・上杉両軍は合計5回川中島で戦ったといわれるが、最も激しい戦いだったのは永禄四年(1561)の第4回目の「八幡原の戦い」である。武田軍2万、上杉軍1万3千の極めて大規模な戦いだった。 この合戦では、弟の典厩信繁を含む多くの武将が討死した。信繁といえば、他国にも広く名が知られ、武田家内での人望も厚く、知勇兼ね備えた名将である。信玄の信頼も非常に厚く、信玄の唯一無二の右腕である。先の大河ドラマの真田幸村も”幸村”の名は後世の歴史家がつけた名前で、正式には“信繁”を名乗っていた。幸村の父、昌幸が典厩信繁を非常に尊敬していたため、次男にこの名前を付けたとも言われている。その信繁の討死が信玄と武田家にとってどれだけ大きな衝撃だったかは想像に難くない。

スポンサーリンク
>

img_0

武田軍だけでなく、無論上杉軍も同様であり、兵士の被害は両軍合わせて5千とも7千ともいう。信玄はそれまで謙信の勢力下にあった土地を恩賞として合戦後には家臣に与えているため、実質的な勝利は武田軍にあったといえるかもしれない。信玄と謙信の一騎討ちは有名である。【甲陽軍鑑】にもこの記述があり、これが基になって尾ひれが尽き史実として語られるようになったのであろう。恐らく創作ではあるが、この合戦で信玄が使った軍配には数カ所の傷があるらしく、全くの創作と言い切ることはできない。少なくともそれだけ激戦だったことを物語っている。上杉方の【上杉年譜】にも同様の記述があるらしいが、これによると信玄に斬りかかったのは家臣の荒川伊豆守長実だという。

img_1

スポンサーリンク
>