武田信玄 対外政策 ~合戦1~


合戦

信玄は多くの合戦をしている。その中から主要な合戦と思われるものを四つ取り上げてみよう。

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志賀城攻め
thU7WY4BD4天文一六年(1546)の合戦である。この戦は信玄初期の合戦として大きな意義を持ったものである。この年に信玄は甲州法度之次第を発布している。つまり、憲法制定直後の遠征と言うことであり、信玄に不平を持つ者がこの機に反乱を起こす懸念がある。その豪族達が信玄の指揮に従うかどうかを試す、いわば、家臣団の忠誠の試金石となった合戦なのである。志賀城はなかなか落城せず、更に関東管領上杉憲政が援軍に来るが、家臣団の離反は起きなかった。この上杉の援軍と戦った際には5千人を討ち取り、その首を志賀城の周りに並べたと言われ、また、捕虜の人身売買もあったという。これが戦国前期の合戦の実体であろう。もっとも、5千はちょっと言い過ぎかと思う。関ケ原の戦いでは東西両軍合わせて20数万の大軍(実質戦った兵数はもっと少ないが)の争いでさえ、戦死者は6千から8千といわれている。仮に追い討ちをかけ、残党や捕虜を処分したとしても当時の信玄や憲政の動員兵数を考えるとちょっと真実味に欠けると思うのだが。

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上田原の戦い
 戦国甲信越信玄は南信濃を掌中に入れた後、当然北信濃に狙いを定めた。北信濃で勢力を持っていた村上義清との対立である。天文一七(1548)上田地方の千曲川河畔で両軍は激突した。この時、武田軍は雪の中を村上軍の待ち伏せを警戒し遠回りして戦場に到達している。寒い中、長い道のりを行軍してきた武田軍に比べ、自領で地の利もあり、寒い中暖を取っていた村上軍では結果は明白だろう。 この戦いで、信玄の右腕的存在の板垣信方も戦死する。【甲陽軍鑑】によると板垣は「油断して陣中で首実検をしているところを村上軍に強襲され討ち取られた」とあるが、歴戦の名将といわれる板垣が、いくら油断したとはいえ、戦中にそのような軽はずみなことをしたのだろうかと個人的には疑問に思う。また、同書によれば、この戦いに武田軍は勝利したことになっているのだ。このことから考えても、この記述を含め、同書のこの戦いに関する記述は信憑性に欠ける。恐らく創作ではないだろうか。 信玄が後退しなかったのも、あくまで戦う機会を待っていたとも言うが、これも信玄を英雄にするための創作であろう。実際は、相当参っていたようである。退却しなかったのは板垣の戦死と敗戦が内政面に与える影響を考えると恐くて「動けなかった」というところが本当の所だろう。

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