武田信玄 武田家の概要 ~父信虎との関係~


父信虎との関係

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成長期
ce61bccc大永元年(1521)信虎の長男として石翠寺で生まれる。幼名は勝千代、元服後に晴信と名乗る。幼少の頃のエピソードは多い。例えば、大量の貝殻を積み上げておき、家臣にその数を推察させたところ、大方が一万、二万と答えたため、信玄は嘆息し、「わずか三千七百の貝殻を二万と間違えるなど、これが戦場の兵数推量であったらどうするか」と言ったとすることや、父信虎に背いて功をあげたと言う16歳の初陣説などである。これらは後世の創作の可能性が高く、ほとんどは英雄伝説の類だろう。また、親子の間には確執があったと言われているが、後の父追放に辻褄を合わせるための作り話だと思われる。実際は父の庇護を受け素直に成長したと考えるのが自然であろう。信玄は恐らく父の命令で、帝王学は厳しく教育されている。このころの甲斐には明国留学から帰ったばかりの名僧や知識人が多くいた。当時の僧侶は仏教だけでなく、兵法や土木技術など幅広い知識を学んできていた。信玄の教育係は岐秀元白である。元白は詩歌・和歌・絵画・孫子の兵法などを教授した。信玄もそれを充分に勉強したため、老臣板垣信方は信玄が文弱にながれるのを恐れ諫言したのだろう。有名な信玄提も彼らから学んだ信用に足る知識があったからだろう。

zin_yoshida

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父信虎との確執
maxresdefault 信虎は次男信繁に家督を継がせようとしたという話は一般に知られているだろう。しかし、戦国初期において相続は分割相続であり、当然この制度は力削ぐ。そのため、信虎は長子単独制度を確立するために尽力したのである。その信虎が、むざむざ信玄を廃嫡してまで信繁に家督を譲るとは考えにくい。信玄と信繁の間にも不和は見られず、信繁は川中島合戦では信玄の楯になって戦死するほどの忠誠をつくしている。確執の件は父追放を正当化する為の逸話だろう。信玄が信虎を追放したのは、父の内政が限界に来たことを察知したからである。信虎は甲斐統一のために中小豪族の不平を無視した。経済面でも飢饉が続いたが、戦力を維持・増大させるため、重税を課し、国は疲弊しきっていた。 信玄は父追放で豪族の不平を押さえ、農民の不満を逸らそうとしたのである。これを道義の問題として取り上げ、信玄を不幸者とするのは、儒教思想が広まった江戸時代である。当時、国・地位を守るために殺害にまで及んだ同属内の争いは数多い。信玄はむしろ甘く、良識があったといえよう。更に、戦略として父を駿河に送り、今川氏との緊張緩和に一石を投じている。抜け目の無いことである。そして、父追放から一年間、民心が落ちついたと判断できるまで信玄は一切の行動を起こさず、静かに待つのである。

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