武田信玄 武田家の概要 ~戦国初期の武田家~


戦国初期の武田家

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武田家の家柄
saying-takedake武田氏は清和天皇の流れを汲む清和源氏である。甲斐源氏勃興の直接的な契機となったのは義清であり、武田氏の祖となったのはその孫の信義である。現在の山梨県韮崎市神山町に「武田」の地があり、信義がここに拠って武田を名乗ったのが武田の姓の始まりと言われる(常陸国那珂郡武田郷とする説もある)。

甲州乱国
img_tenji_sengokukara【妙法寺記】によると、「延徳四年、六月十一日甲州乱国にはじまるなり」とある。原因は甲斐守護武田一族の内輪もめであり、当主は信玄の祖父信縄である。甲斐における戦国時代の幕開けである。 武田家は波瀾の中にいた。10代信満の自刃の後、11代信重は甲斐から逃亡し、二十年間も流浪を続ける。この間、甲斐は守護代跡部氏一族のものになっている。 この状態を打破したのは、13代信昌である。寛正六年(1465)、信昌は跡辺一族を撃滅し、守護の権威を取り戻した。 また、この頃は、家督相続の方法が女子も含めた兄弟による分割相続から長子単独相続に変わろうとしていた。当然、他の兄弟から不平が出る。「甲州乱国」の原因もこれが理由だ。信昌は武田家を再興したが、相続では紛争の原因を残したまま引退し、信縄は弟たちと争って後を継いだ。

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甲斐の統一
img_4信玄の父信虎はこの紛争のさなか、信縄の長子として生まれ、父の死により14歳で家督を相続するが、幼い信虎に国人が反旗を翻し、内乱が勃発した。信虎はこれをなんとか鎮圧するが、この後も内乱や隣国大名の侵攻により前途は多難なものだった。今川氏との和睦により内乱も縮小し、後には甲斐の領国統一を果たす。
信虎は暴君の典型のように伝えられているが、長子相続制度を確立させるために、古い制度に固執する叔父たちを殺して甲斐統一を果たしたためだろう。駿河の今川氏や相模の北条早雲が甲斐を狙っていたこの時期では、多少強引でも甲斐統一により外敵に当たるのが最善の手であり、これらの殺害はやむをえないと言える。当時の厳しい乱世において綺麗ごとは通用しないのである。

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