本能寺の謎 明智光秀生存説


こんばんは。

歴史上の謀反としてもっとも有名だと思われる本能寺の変、天下統一が見え始めていた織田信長が家臣の明智光秀に本能寺で襲撃され死亡した事件です。この事件を契機に日本史は大きく動いていきます。良くも悪くも信長は戦国の世にあって、それだけ大きな影響を持った人物だったということですね。

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さて、1582年に織田信長は本能寺で自害、そして明智光秀は山崎の戦いに敗走後、土民に討たれて戦死、 これが、誰もが知っている戦国の歴史です。 この歴史は定説であり、おそらくこれが正しい歴史なのでしょう。ですが、これとはまた別の、異説ともいえる歴史がこの日本には存在するのです。

それは、「明智光秀は山崎の戦いで死なず、その後も生きていた」という驚くべき説です。それも、どこかの村でひっそりと生きていたのではなく、徳川幕府の重臣として生きていた、というトンデモ説です。好きな武将の3/3でもちらっと書きました。

なんだ、ただの荒唐無稽な作り話か、当然そう思われる方が多いと思います。ですがこの話、必ずしも荒唐無稽とは言い切れないのです。

徳川幕府の重臣は、当然身元がはっきりした人物ばかりなのですが、その中に、1人だけ身元がよくわからない人物がいます。tenkaiその人物の名は南光坊天海です。この人物だけ、若い頃に何をやっていたのかよくわからないのです。 もちろん、明智光秀が南光坊天海であるという理由はそれだけではありません。例えば、南光坊天海が家康とやたら親しかったこと。
(後から親しくなったわけではなく、初対面の段階から、なぜか両者は妙に仲がよかったと記録されています)
(もし彼が光秀なら、彼らはそれなりの仲なので、初対面の段階で仲がよくてもおかしくありません)

天海が書いたといわれる書状に、なぜか「光秀」と署名されていたこと、天海が築いた日光東照宮のあちこちに、なぜか明智家の家紋が書かれていたこと、天海が何の関係もないはずの春日局の後押しをしたこと、(春日局は明智家重臣斎藤利三の娘です)
これらのことは、南光坊天海が明智光秀であることを現す根拠になっています。

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では南光坊天海が明智光秀であるのは確実なのかといわれると、
実はこの説には大きな弱点があります。所説ありますが、明智光秀が生まれた年は1528年、南光坊天海が亡くなった年は1643年です。なので、もしこの2人が同一人物だとすれば、光秀はそんなに長生きしたのかという話になるわけです。当時は今と違って寿命はそんなに長くありません。信長の好んだ敦盛でも「人生50年」という歌詞が出てきます。有名ですよね。もちろん長生きする人もいたでしょう。伊達政宗や徳川家康は70歳過ぎまで生きているので、当時としては現代の100歳の感覚ではないでしょうか。

そうすると光秀が生まれた年には諸説あるとはいえ、それを加味しても、両者が同一人物なら、さすがに長生きしすぎでしょう。
この、年齢という致命的な弱点があるので、この説は歴史の定説にはならず、あくまでミステリーどまりなのですが、ただの歴史のミステリーで終わらせるには、あまりにも魅力的な説であることは確かです。

山崎の合戦後に光秀の首は秀吉に届けられていますが、実はこれ本物かどうか分らないのです。光秀の首は3つ届けられたとも言います。そしてその首はすべて顔が判別できない状態だったと言います。三条河原に晒された首もおそらく本人のものではないのでしょう。秀吉はとにかく急いで光秀の首として公開する必要があったので、本物でなくても「光秀の首だ」として晒すことのほうが重要だったのです。

そうなると光秀が死んだ証拠は一切ないわけです。土民に討たれたという話も信憑性に欠けるもので、裏付けできる資料は何もないのです。

年齢の弱点があるとはいえ、妄想を掻き立てられる話ですよね。実際、この説を元にしたドラマもあるくらいですし。こういったミステリーがあるから、歴史は面白いです。

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