小国の分立について


灌漑や排水の施設をつくるためには、大がかりな共同の土木作業が必要となりました。このような事業を指導した村の有力者は、やがて村の人びとを支配するようになり、さらに豊作祈願などの祭りをとり行い司祭者としての権威も持つようになったと考えられます。

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こうした貧富や身分の差、支配者の出現は各地に数多く残る大がかりな埋葬施設を持つ弥生時代の墳丘墓から、たくさんの中国製の鏡や武器が発見されていることからも確認できます。水稲耕作が広まると、集落のあいだにさまざまな対立抗争がうまれました。まず、ひとつの水系にそってできた集落のあいだに灌漑用の用水を確保するために対立がうまれました。また、土地や収穫物をめぐる争いもおこり、村を外敵からまもるための防御施設をつくるようになりました。

kanngou佐賀県吉野ヶ里遺跡の二重に壕をめぐらした環濠集落はその一例です。これらの対立抗争を通じて集落のあいだに上下関係や支配・被支配の関係がつくられ、より広い地域を支配する権力ができていったと考えられます。こうして弥生時代中ごろには、各地に「クニ」とよばれるまとまり(小国)が形成され、さらにこのような小国間の対立抗争の結果、より大きなまとまりが形づくられていきました。そして、ひとつのまとまった地域では同じ祭りがとり行われたものと考えられます。

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九州北部の銅矛、瀬戸内海一帯の銅剣、近畿地方中心の銅鐸というように青銅製の祭りの道具がそれぞれ一定の広い範囲に分布しているのは、このような事情をあらわしていると考えられます。そのころ、中国は漢(前漢)帝国が支配し、その影響力を朝鮮半島にまでのばしていました。中国では日本のことを「倭」とよんでいましたが、漢の歴史をしるした「漢書」には紀元前後に倭人が100余りのクニにわかれており、定期的に朝貢してきたことが書かれています。また、「後漢書」には紀元57年に朝貢した倭の奴国が光武帝から印綬を受けたとしるされています。

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