縄文人の生活2 縄文文化


以前、縄文人の生活について書きました。今回は若干視点を変えて文化について書いてみます。もっとも文化は生活の延長なので、縄文文化2と言えると思います。

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image03多くの集落では中央に広場を設け、それぞれ4~5人ほどが住める竪穴住居が数戸、広場をとりまくような形でたてられていました。生活は食料を獲得することに追われ、四季の変化に応じてクリ・クルミ・ドングリなどの木の実を採り、魚や鳥・獣をとらえました。各地に残る貝塚を調べると当時の食料が明らかとなりますが、なかにはクジラやイルカなどの骨もあり、人びとが共同で漁労をしていた様子もしのばれます。また、長野県の和田峠など決まった場所でしか採れない黒曜石でつくられたやじりが各地で見つかっています。この分布から見ると、広い範囲で交易が行われていたことが想像できます。採取経済の生活は自然条件に左右されましたが、食料の獲得方法や保存の技術が発達した結果、人びとの生活は比較的安定していたそうです。しかし、採取段階の生活のなかでは財産ができることもなく、人びとのあいだに貧富の差や身分の上下などはなかったと考えられています。それは住居の規模にあまり大きな差がないことや、埋葬が共同墓地で行われ、特定の人物や一族のために特別の墓がつくられなかったことなどからも推測されます。

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5_04graph縄文人は短命で、15歳になるまでに半数くらいが死亡したと思われます。平均寿命は30歳くらいと考えられています。人びとは自然現象や自然物に霊が宿ると考え(アニミズム)、呪術によって災いをさけ豊かな収穫を祈りました。石棒や女性をかたどることが多い土偶などは、呪術的風習があったことを示しています。また、死者を埋葬する際には多くは身体を曲げて葬りました(屈葬)。これは死者の霊が出てきて生者に災いをおよぼすのをおそれたためと考えられています。数千年間続いた縄文文化は紀元前4~3世紀ころ、大陸から水稲耕作と金属器が伝わると大きく変化することになりました。水稲耕作と金属器の使用は、ともに中国大陸ではやくから行われていて、それらが朝鮮半島を経由して日本列島にも伝わったのです。この新しい文化は朝鮮半島からわたってきた人びとによって、まず九州北部に伝えられました。

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