弥生人の生活 水稲耕作


縄文時代と弥生時代はなんとなく同一みたいに考えてしまう傾向ありませんか?以前の私は学校で習った縄文土器と弥生土器の違いくらいの感覚でほぼ同じようなものという感覚でした。受験用には回答できる知識はあったんですが、ちゃんと理解できてなかったわけです。同じような人は多分ですが多いのではないでしょうか?

縄文時代については縄文人の生活縄文文化で記事にしてますので、良かったらそちらも読んでもらうと違いがもう少しイメージしやすいかもしれません。

弥生時代の明らかな特徴は稲作が始まったことではないでしょうか。もっとも縄文後期にも始まっていたかもしれないので、明確に線を引くのは難しいかもしれませんが。

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d4da5e98水稲耕作は西日本で急速に広まり、やがて東日本へも伝わっていきました。金属器には、武器などの実用的な道具として使われた鉄器と銅剣・銅矛・銅鐸など、おもに祭りの道具として使われた青銅器とがありました。この文化は赤焼きの土器をともないましたが、このような土器は東京都文京区弥生町で発見されていたことから、地名にちなみ弥生土器とよばれています。弥生土器の多くは文様が少なく、煮炊き用のかめ、貯蔵用の壺、盛りつけ用の高杯という3種類の器がセットで使われています。この紀元前4世紀から紀元3世紀の時代の文化を弥生文化とよんでいます。弥生文化は、紀元前2世紀ころには東北地方の青森にまでおよび、こうして日本列島は自然にあるものを採って食べる食料採取の段階から、食料となる植物を人間が積極的に産み出す食料生産の段階へ移ったといえます。

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しかし、気候上の問題もあって稲作は北海道と南西諸島にはおよばず、北海道では続縄文文化、南西諸島では貝塚文化とよばれる食料採取文化が続きました。水稲耕作が広まるに従って、人びとの生活は大きくかわりました。

250px-toro_site_1弥生時代後期の水田跡の様子を示す静岡県の登呂遺跡は、川のそばにできた自然の土手の上に集落がつくられており、水田は低湿地に開かれていました。この時代の水田は、杭や板でかためた畦で区切られたものが多く、川から田へ水を引いたり(灌漑)田にたくわえた水を川へ流したり(排水)するための用水路もそなえていました。当時すでに種を田に直接まくのではなく、苗を植える田植えがはじまっていたことがわかっています。耕作には木製の鋤・鍬のような農具を用いました。収穫には磨製石器の石包丁を用いて穂の首を刈りとっていましたが、弥生時代後期になると鉄鎌を使うようになりました。人びとは収穫した籾を高床倉庫や貯蔵穴に納め、食べるときに木臼・竪杵で脱穀しました。こうして弥生人はより安定した定住生活をいとなむことができるようになり、豊富な食料をうみ出す集落の生活から貧富や身分の差が生じることになったと考えられます。

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