源義経と源頼朝


前に「頼朝・義経兄弟と妻たち」でも書きましたが、再度この2人いついて調べてみました。

スポンサーリンク
>

583e29ee222d2d16c8839dbce28af1e1鎌倉幕府を創始し、日本で初めて将軍職に就いた源頼朝ですが、彼は決して戦(いくさ)が強イメージはありません。頼朝は、日本の学校で歴史を学んだ人なら誰でも知っている存在なのに、どんな人で何をしたかと聞かれると、あまりイメージが湧かない人も多いのではないでしょうか。なぜ、そんな印象の薄い(?)頼朝が日本で最初に幕府を開くという偉業を成し遂げることができたのでしょうか。

一方、頼朝の弟の義経は、戦の天才として有名です。もし義経の能力と功績がなければ、頼朝は幕府を開かもしれません。ところが、そんな義経を、頼朝は粛清してしまいました。なぜでしょう?義経のイメージはすごく美化されすぎているのではないかと思います。この辺は「戦の天才たって?美化された武将たち」でも書きましたので、ぜひ一読してもらえればと思います。

スポンサーリンク
>

img_1089さて、武将の鏡かつ容姿端麗な美青年のイメージすらある義経ですが、私が思うに、義経は割と空気が読めないタイプだったのではないでしょうか。頼朝が政権の長として鎌倉を中心に日本を統治していこうという時に、義経は京都で公家と親密になり、頼朝に警戒されていきます。しかも義経は知られた戦の天才でした。戦も終わり、平和な時代には、かえって戦に強い義経のような存在は頼朝にとっては有害だったと思われます。そんな時代の流れ、空気が義経にはわからなかったのです。義経は頼朝から徐々に追い詰められ、奥州平泉にまで落ちていってしまいます。そして、自刃して果てました。わずか31歳でした。義経が戦の天才だったのは、多くある理由の内の一つとして、独断専行だったからではないでしょうか。当時の常識に囚われない斬新な方法を編み出し、平氏を打ち破って行きます。綺麗ごとだけでない汚い戦もやってきていますが、それは義経の独断専行ができるからこそのことだと思います。いちいち遠方の頼朝の指示を仰ぎながら戦をしていたのでは、戦に勝てるチャンスを逃してしまいます。戦にはそれで勝つことは出来たのでしょうが、その独断専行が頼朝の不信を買ってしまいました。つまり、戦が強かったことと、その後の不遇は裏腹の関係だったのだと言えます。日本人が好きな判官(ほうがん)贔屓、若くして死んでしまったこと、戦が強い派手な印象があること。これらの理由から、義経は悲劇のヒーローと崇められ、その対照として頼朝はイメージが悪くなってしまったのだと思います。平家討伐の最大の功労者を粛清したというのはものすごくイメージ悪いですよね。しかも血のつながった弟ですから。

最初に挙兵をしたのは、頼朝でした。印象の薄い(?)頼朝が幕府を開くという偉業を成し遂げることができた理由は、自らは最前線にあまり出ないが、義経はじめ、部下たちをうまく使えたからでしょう。そして部下たちのやることを良しとする度量が少なくとも幕府を樹立するころまではあったということでしょう。ただし、いざ幕府を開いて征夷大将軍になると自分のいうことを聞かない部下は目障りになったのではないでしょうか。つまり、敵がいなくなったら隠していた自己中心な部分が表面化したのではないかと思います。目的を成し遂げたら人間が変わるのは良くあることですよね。頼朝もそんなある意味人間らしい武将だったと言えるのかもしれませんね。

スポンサーリンク
>