近衛文麿 皇族から日本の指導者になった文麿は悲劇の宰相だったのか?


edc0fd32近衛文麿は、大化の改新の功労者の一人である中臣鎌足の子孫で、名門の家柄である五摂家の頂点である近衛家の第30代目当主で後陽成天皇の12世孫にあたります。 そして、彼は、皇別摂家の生まれであり、後陽成天皇の男系子孫にあたります。彼の母は加賀前田家の出身であり、文麿が幼いときに病没、父の篤麿は彼の母親の妹を後妻に迎えますが、文麿はこの叔母にあたる継母とはうまくいかなかったようです。文麿は叔母を長年実母と思っていましたが、成人して事実を知り、叔母の文麿に対する冷たい態度も相まって、このことが文麿の人格形成に大きな影響を与えました。また、文麿は、父の篤麿は41歳の若さで死去してしまい、12歳にして襲爵し近衛家の当主となるが、父が残した多額の借金をも相続することになってしまいました。近衛文麿のなんとなく陰がある反抗的な気質は、このことが原因でしょう。

スポンサーリンク
>

023政界へは、満25歳に達したことにより、公爵として世襲である貴族院議員になります。第一次世界大戦の戦後処理として、パリ講和会議では全権・西園寺公望に随行するなど、政治家としての実務や経験を積んでいきます。しかし、時代の波が彼を総理大臣にしようとしていきます。世界恐慌、その余波から、昭和恐慌、満州事変、五・一五事件、二二六事件など政治家が軍人によって殺されるという軍人によるクーデターが起こってきます。そのとき、開明的で若い貴族として国民的な人気も高く、政党政治の行き詰まった後の日本の天皇制を支える政治家として期待されていた、その人物が近衛文麿です。

1937年に、就任直後第一次近衛内閣成立の後、7月に盧溝橋事件が勃発、近衛内閣は当初不拡大方針をとりましたが、戦争拡大を進める軍を追認し出兵を許可しました。宣戦布告のない終わりが見えない泥沼の事実上の日中戦争の開始となりました。

近衛内閣は戦時体制を強化するため、国民精神総動員運動を起こし、「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」を国民に呼びかけ、また企画院を創設して煎じ経済の統制に乗り出し、国家総動員法を制定しました。長期化する日中戦争の収束は進まず、閣内にも北進論、南進論の対立などがあったため、閣内不統一が表面化し39年1月に総辞職し、また、1940年7月、第2次近衛内閣が成立し、ただちに閣議で「基本国策要綱」を決定し、ドイツ・イタリアの「ヨーロッパ新秩序」に呼応する「大東亜新秩序」の建設と「新体制」と言われる戦時体制の整備が為されるとともに、大本営は「武力南進」の方針を固め、この「大東亜新秩序」構想を実現するものとして「大東亜共栄圏」の建設が喧伝されました。img048daitoakyoueiken-wwiiこの方針の下、1940年9月、日本軍はフランス領インドシナ北部に進駐、一方では外相松岡洋右の主張に沿って日独伊三国同盟を締結しました。そして、すべての政党は解党して近衛文麿を総裁とする大政翼賛会が結成され、翼賛政治と言われるファシズム体制が成立し、結社の自由だけではなく、言論、出版、集会の自由が否定され、国民生活は厳しい戦時体制に置かれることとなりました。

スポンサーリンク
>

近衛文麿は、ソ連・アメリカ両面との戦争は不可能であるので、当面アメリカとの関係回復を目指すこととし、対米強硬派の松岡外相を外して改組しりために、第三次内閣を組閣しました。交渉が難航する間に、日本軍は7月に南部仏印進駐を実行し、東南アジアでの資源確保に動き始め、さらに態度を硬化させたアメリカは日本に対する石油輸出をストップ、日本国内にABCDラインによる日本経済封鎖という包囲網の打破のための開戦を主張する声が強まりました。abcd1941年9月の御前会議で陸軍大臣東条英機が強硬に日米開戦を主張、「帝国国策遂行要領」を決定、日米交渉が10月上旬までに打開されない場合は、開戦を決意するとされた。近衛首相は日米交渉の継続を希望し、みずからフランクリン=ルーズヴェルト大統領と話し合いをしましたが、ついに総辞職し、現役陸軍大将が首相となって東条英機内閣が成立、もう戦争が止められない状態だったのです。

終戦後は、近衞は東久邇宮内閣に副総理格の無任所国務大臣として入閣し、近衞は連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーを訪問し、近衞は憲法改正作業をマッカーサーから委嘱されたことにより、新時代の政治的地位を得ることができたと考えていましたが、国内外の新聞では徐々に支那事変、三国同盟、大東亜戦争に関する近衞の戦争責任問題が追及され始めます。そして、1945年12月6日に、GHQからの逮捕命令が伝えられ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが最終的に決定し、近衞は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の12月16日未明に、荻外荘で青酸カリを服毒して自殺しました。

スポンサーリンク
>