大久保利通 政策とその勇気


ookubo大久保利通は、薩摩国に、琉球館附役の薩摩藩士の大久保利世の長男として生まれました。 大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分で下級藩士でした。 武術は体が弱かったため得意ではなかったので、頭脳を鍛えて学問で身を立てようと思ったのでしょう、その学問は郷中のなかで抜きん出ていたと言われています。西郷隆盛とは共に維新を推進してきた同士であり、プライベートでは子供の頃から家族ぐるみのつきあいをしてきた親友でもありながら、最終的にはその西郷隆盛を死に追いやった非情で冷酷な人間として、あるいは、明治初期に於いて当時の政府の事実上の頂点に立ち絶大な権力を行使して強権的な政策を次々と断行していった冷徹な権力者として、一般国民からは、政治家としての評価は高くてもその人気は今も昔も低いのが本当のところでしょうか。

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c0190486_2053565大久保利通は、もともと不平等条約改正のために、岩倉具視を全権大使とする欧米視察団(岩倉使節団)に特命全権副使として同行し、欧米諸国の圧倒的な軍事力と経済力を目の当たりしにて日本が世界の国々と渡り合うためには、まず殖産興業を行って国の基礎を固めなければならないと思い、帰国後、西郷隆盛、副島種臣、板垣退助、江藤新平たちが征韓論を主張し、排日と鎖国政策をとる韓国に対して武力で開国を迫るべきだという主張に対して、欧米の実力を目の当たりにした岩倉使節団のメンバーの大久保は、岩倉具視や木戸孝允らと共に内治優先を貫き、征韓論を主張する西郷らと真っ向から対立しました。その結果、西郷は政治的に敗北して下野する事になり、この西郷の下野が、やがて明治10年の明治政府に対する不平士族を中心とした日本で最後の大きな内戦である西南戦争へと発展していったのでした。

明治政府は、「殖産興業」と「富国強兵」というスローガンを掲げ、大久保はそのいずれの政策にも深く関わり、官営の鉱山や工場を立ち上げ、先進諸国の機械設備や技術を導入して、日本の工業化を積極的に進めました。それ以外にも、大久保は西洋農法の導入も重視し、農業の近代化にも貢献しました。

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ministry_of_home_affairs_550大久保が政権内で実力者たり得るきっかけになったのは「内務省」の創設です。内務省は、現在でいえば財務省・外務省・防衛省以外のほぼ全ての省庁を兼ねた、日本の歴史上稀に見る程の強大な権力を有した省庁でした。大久保は、この超強力省庁を活用して自らの政策を推し進め、大久保の死後も、大東亜戦争が終結するまで内務省は存続し続けました。

大久保暗殺の背景には、こうした新政府内の反対勢力との確執や、中央集権による近代国家成立に向けた各種の改革、例えば、士農工商の身分制度撤廃、秩禄処分による士族への俸禄打ち切りなどで武士としての特権を次々に奪われていった士族達の反発があったのです。それゆえに、士族の不平をすべて請け負った悪役として、暗殺されたのでした。

明治維新では有能かつ中心的だった人物で長生きした人はほとんどいません。それだけ激動の時代で、彼らは命を懸けてでも日本を改革しようとしていたのです。大久保もこれだけの権力を持ちながら、自分の財産はほとんどなかったそうです。むしろ国政のために自分名義で借金までしていたとか・・・。大久保は改革者なので敵も多く、結果暗殺されてしまいますが、彼が明治維新の超一流の政治家で近代日本を作り上げた中心人物であったことは間違いないでしょう。現代にもこんな厳しくとも崇高な政治家出てきて欲しいものですね。

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