近藤勇 ヘッポコ当主だった新撰組局長


近藤勇といえば、明治維新期に京都で恐れられていた新撰組の局長です。組なのになぜ局長かというのはさておき、武闘集団のリーダーで当然コワモテのイメージではないでしょうか。実際、写真でもなかなかのコワモテで、では当時でも一般人ではなかなか近寄りがたい存在だったのではないでしょうか。

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竹刀技はからっきしだよ近藤君!

「親権を持たせると敵なし」と称された新撰組局長の近藤勇、その腕前は天才剣士・沖田総司にも劣らぬと言われたほどだったといいます。ところがこの近藤勇、なぜか竹刀技となるとからっきしだったというのです。

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新撰組の結成前、近藤は天然理心流・近藤周助の後を継ぎ、道場「試衛館」を開いていました。当時は道場やぶりで名を売ろうとする人も多く、例に漏れず試衛館も道場やぶりの他流試合を申し込まれることも多々あったのですが、竹刀技が苦手だった近藤が取った対策は、何と外部から助とを連れてくるというものだったのです。道場の当主たる近藤が、情けないにもほどがあるというものです。

近藤が助っ人を求めたのは、九段坂上三番町にある神道無念流の渡辺昇でした。道場やぶりの技量に応じて渡辺の道場「練兵館」から助っ人を頼んでいました。

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近藤と渡辺の交友関係

道場破りを撃退した後は、女性に加わった門弟たちに御馳走が振舞われました。御馳走と言っても当時のことなので、沢庵などのちょっとしたものを肴に冷酒をあおるだけなのですが、門弟たちにとってはこれでも格別だったようです。これを楽しみにしていたものも多く、助勢に行っては御馳走に舌鼓を打っていたのです。そのあとも渡辺と近藤の交友関係は継続していきました。

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しかし、渡辺昇と言えば坂本龍馬に並ぶ討幕運動の立役者です。つまり、会津藩を後ろ盾ににした佐幕派である新撰組局長である近藤とは相反する立場になるわけです。『渡辺昇自伝』によると渡辺に危機が迫ったとき近藤は渡辺に「京を去れり」と注意を促したといいます。超硬派の新撰組の、しかも局長が敵対する人物に注意を促すとは普通なら考えられません。しかも隊士には厳しい規律を守るようにさせ、破ったものは切腹というような非常に厳しい規律です。そんな中で近藤が渡辺を気遣ったというのは、逆の道を突き進んだ二人ですが、若い頃の友情は永遠に不滅だったということなのでしょうか。これは今でも通じるところがあるのかもしれませんね。

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