中岡慎太郎 尊王攘夷派は長州藩のスパイとして利用されていた?


中岡慎太郎と言えば、坂本龍馬の同士かつ親友で、明治維新に尽力した土佐出身の人物です。龍馬の海援隊に対し、中岡は陸援隊を組織して幕末を駆け抜けようとしていました。最終的には龍馬と近江屋で暗殺されてしまいます。享年30歳、本当に明治維新では能力もある人物たちが若くして亡くなっていますね。時代の変貌期とはいえ、もったいない人物たちです。彼らのおかげで今の日本があると考えると、大きな経緯を評さないといけないと改めて考えさせられます。

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長州藩へ集まる尊王攘夷派

さて、8月18日の政変以降、全国の諸大名が自藩の尊王攘夷志士を弾圧し始めたのに対し、長州藩だけは尊王攘夷を唱え続けました。そのため、自藩を追われた志士たちは自ずと長州藩を目指すことになりました。中岡慎太郎もその一人、中岡は土佐藩を脱藩し長州藩に逃れてきました。すると中岡を受け入れた長州藩は、彼らを京都などの各地にスパイ活動をさせるために潜伏させたのです。

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中岡の場合はまず1864年1月に京都へ行きました。そこで高杉晋作と出会い、島津久光暗殺を画策しましたが、果たせずに5月に長州藩へ戻りました。そして翌6月に再び京都へ入りました。7月に入ると『禁門の変(蛤御門の変)』が起こり、中岡は脱藩志士らのまとめ役となって戦いましたが、敗れてまたも長州へ戻ります。8月にまた京都へ向かい、10月に長州へ帰藩。すぐさま今度は鳥取へ出立し、11月にはまた戻ってきました。中岡は各地へ行ったり来たりの繰り返しでまさに休む暇なしを地でいっていたのです。

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スパイ・中岡慎太郎は大忙し

このように過酷な任務を強いられた中岡ですが、土佐藩を脱藩したことにより罪人とされているため、罪を許されるまでは自身を庇護してくれている長州藩に対して何も言えなかったのが正直なところなのでしょう。もちろん、中岡だけでなく、長州藩に逃げ込んでいる他の浪人たちも同様です。長州藩が他藩の尊王攘夷派を受け入れた狙いは、彼らの立場や心理をうまく利用し、スパイ活動を行わせることにあったと考えるのが自然なのではないでしょうか。

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涙を抱えて沈黙すべし

中岡慎太郎は、ある意味では龍馬より英雄視されている側面もあります。もちろん、歴史好きの中での話なので、一般の人には名前すらあまり知られていない可能性はあるのですが。

中岡が土佐の同士に宛てた手紙に「涙を抱えて沈黙すべし。他外に策なし」の文があったとされます。清岡道之助を筆頭とする土佐郷士が土佐藩に対して『藩政改革、攘夷、武市瑞山の釈放」を求めて嘆願書を出すも聞き入れられず、全員処刑となる事件がありました。処刑されたのが“野根山23士”と呼ばれています。この悲報を受けた中岡が長州から「今はとにかく耐えることだ、それ以外にできることはない」と同士に早まらないように呼び掛けたものです。この手紙は未来への決意も多分に含まれおり、中岡らしい熱いものとなっています。

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