坂本龍馬 いろは丸と共に消えた蝦夷地開拓計画とは?


坂本龍馬と言えば、薩長同盟や船中八策などで明治維新の重要人物として有名です。更に海援隊で時代を先取りし、土佐の下級武士と言う低い身分にも関わらず斬新なアイデアと類稀れな行動力で日本史にその名を残し、現代でも非常に人気のある人物です。

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北国に見た龍馬長年の夢

海援隊を組織し、ビジネスマンとしても活躍していた龍馬ですが、その海援隊の武器などを積載していたとされる『いろは丸』が鞆の浦沖のム島付近で紀州藩の軍艦である明光丸と衝突する事件がありました。『いろは丸沈没事件』と言われる海難事故でした。この事件により、いろは丸は沈没、この船に託されていた龍馬の蝦夷地開拓の夢も儚く散ってしまうことになりました。

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そもそも土佐の人たちが蝦夷地に興味を持ったのは日米和親条約が締結された1854年以降です。函館と下田にアメリカ領事館が設置されると、土佐藩からも北方視察に行く者が登場しました。そして実際に赴いて現地を見聞きしてきた者たちから視察話を聞いた龍馬は、蝦夷地の開拓を夢見るようになったと言います。その計画も立てていたようですが、実行前に発生した池田屋事件により計画は中止に終わったのです。

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龍馬の夢は呆気なく海底へ

それでも龍馬は夢を諦めませんでした。しかし、土佐を脱藩していた龍馬は維新にむけて奔走していたとはいえ、公的には事実上の失業状態だったわけです。そんな龍馬をみた桂小五郎(木戸孝允)は、下関の本陣・伊藤家に寄寓させ商売をさせようとしました。当時の下関には、秋には北国の物資を積んだ“北前船”が集まってきていました。また蝦夷地から日本海を西回りし、下関から瀬戸内海へ出て大坂へ抜ける“北前航路”も繁栄し、何かと蝦夷地と接点を持つチャンスが多くあったのです。

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桂小五郎に再度チャンスをもらった龍馬は下関に拠点を移し、再び蝦夷地開拓を試みたのです。龍馬は妻のお龍を長崎から呼び寄せまでして着々と計画を進めようとしました。そして“北行の船”としていろは丸をチャーターし、蝦夷を目指す契機にしようとしていたのです。しかし、前述の通り初航海にてまさかの沈没。龍馬としては期待に胸を膨らませて、ようやく計画を遂行できると考えていた矢先の出来事です。龍馬の落胆は推して知るべしですね。結局、この年の末に龍馬は暗殺され、夢が実現することは未来永劫なくなってしまったのです。

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もともと『いろは丸』は伊予大洲藩の所有で、海援隊がチャーターしていた船でした。自己の相手が御三家の紀州藩と言うこともあり、紀州藩は一方的に責任を逃れようとしたようです。龍馬は万国公法を引き合いに争っています。結果、多額の賠償金も勝ち取っています。本当はこのお金でもう一度蝦夷地開拓に挑もうと考えていたのかもしれませんね。

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