西郷隆盛 せごどんは西南戦争の後に生き延びていた?


西郷隆盛は“維新三傑”の一人です。大河ドラマの主人公、日本人に大人気の明治維新の英傑と言えば西郷隆盛の名をあげる人も多いでしょう。そんな隆盛ですが、実は死んでいなかったという説があります。真偽は別にしてそれを紹介したいと思います。

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隆盛像のモデルは別人!?

大河ドラマ「せごどん」でも初回の出だしがこのエピソードでした。東京上野公園の西郷隆盛像を見た夫人の糸子は「うちの人はこげんなお人じゃなか」と驚いたと言います。それもそのはず、隆盛像のモデルとなった肖像画は隆盛本人ではないのです。像は隆盛の死後に描かれたもので、“弟・西郷従道の目元”と“従兄弟・大山巌の顔つき”をモデルにしたと言われています。

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残念ながら隆盛本人の肖像画はもとより、本人であると確認されている写真も一枚も残っていないのです。当時は写真機が存在していて、幕末の偉人たちはその姿を写真に残していることも多いのですが・・・。最近では新選組3番隊組長・斎藤一の写真が発見されて話題になっていました。維新三傑であるにも関わらず、なぜ隆盛だけは写真が残っていないのか大いに不思議なところではありますが、現実として隆盛本人の顔は分っていないのです。維新後、明治天皇から自らのご真影と引き換えに、写真を送るように所望されたときでさえ、彼はこれを拒否したと言います。なぜ隆盛は自分の姿が世間の目に触れることを頑な拒否したのでしょうか?

西郷家は隠密を生業にしていた?

iBIyjJaq_400x400西郷家は一般的には薩摩の下級氏族と言われていますが、実は元々隠密を生業とする家系で、隆盛の父・吉兵衛は赤山靱負のご用達として情報収集を行っていたとも言われています。赤山は島津斉彬の重臣なので、本当にその赤山の隠密であれば、それなりの力を持っていたのかもしれません。そして隆盛自身も江戸にいたころは『お庭方』という職に就いており、情報収集や工作を任務として他藩の動向を探っていました。その仕事がら、隆盛は自分の要望や特徴を知られることを避けていたのかもしれません。もっともあれだけ大々的に活躍しているのに、今更?という気もしますが、隆盛なりのなんらかの拘りや懸念があったのかもしれません。

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西郷はロシアに渡っていた?

そんな隆盛にまつわる最大のミステリーが隆盛が死んだとされる西南戦争の“後”です。なんと、隆盛は死んでおらず、ロシアに渡って生き延びていたというのです!にわかには信じられませんし、一般世間には知られてもいない説と言っても良いでしょう。

1891年、シベリア鉄道視察の後に来日することが決まっていたロシアの皇太子ニコライと一緒に、『実は生きていた隆盛が帰国する』という噂が流れました。隆盛の目的は「日本の政界を粛清する」こと。この噂を受けて明治天皇も冗談交じりではあるのですが、「それが事実なら西南戦争の論功行賞を取りけさないといけない」と述べたほどで、当時はちょっとした騒ぎになっていたのです。そしてこの噂が一つの大事件を引き起こしてしまいます。隆盛の復権を恐れた巡査・津田三蔵が来日したニコライを暗殺しようとしたのです。この事件は『大津事件』とされ、津田は隆盛が復権すると与えられた勲章を取り上げられると考え事件を起こしたというのです。

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隆盛がロシアに渡っていたという証拠は一つもありません。しかし、生存説一つで事件が起こってしまうほどの影響力は隆盛が唯一無二の存在である証拠とも言えるでしょう。歴史上の人物には結構いろんな人に生存説があります。源義経、織田信長、明智光秀などなど。それだけ人気と影響力もあり、生き残っていて欲しいという日本人の判官贔屓が現れているのかもしれませんね。

でも、もしかしたら本当に・・・???

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