太田牛一 戦国の記録家だからこそ「信長公記」


太田牛一、みなさんはこの武将の名前をご存知ですか?

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歴史好きにはすぐ通じる知名度なんですけど、一般的には知名度あまりないんですよね。実はNHKの歴史ヒストリアに取り上げられたこともある武将で、戦国時代の研究家とかには非常にありがたい人なんです。信長公記の記事で記載した通り、貴重な資料である信長公記を残した武将です。今回はそんな太田牛一にスポットを当ててみます!

元々はお坊さんだったのですが、還俗してから武士になったようです。最初から信長に仕えていたわけではなく、最初は斯波氏に仕えています。その後、信長配下の柴田勝家の家臣となったので、信長の陪臣ってことですね。その後にようやく信長の直臣になっています。もちろん合戦にも参加していますが、基本的には官僚として活躍していたようです。牛一はメモ魔だったようで、信長はもちろん、ほかの普段見た出来事を逐一メモしていたそうです。引退してからそのメモを集めて作ったものの一つが信長公記なんですね。

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色んなメモを取り、色んな書物をまとめてきた牛一ですが、そのおかげで信長のある有名な言葉が分かったと言われています。それは【是非に及ばず】だそうです。すごく有名な言葉ですよね!信長が本能寺で最後の言葉として、ドラマとかでも必ず最期のセリフに発するセリフですね。zehinioyobazuこの言葉が牛一のメモで残っていて現代まで伝わっていると言います。もちろん牛一は本能寺の変発生時に本能寺にいたわけではないので、直接聞いたことはありえません。本能寺の変を知る人を探し出して聞き取ったそうです。まるで新聞記者ですね!もっとも信長最後の言葉を聞くくらい信長に近くて、生き残った人がいるのかは疑問もありますが、牛一のおかげであの有名な言葉があるわけですね!

更に安土城の内部詳細は牛一のメモのおかげと言われています。城の内部までメモするって、どれだけのことをメモってたのでしょうか?(笑)しかし、城の内部事情なんて極秘情報ですからね。もし当時知られていたら牛一は生きてはいなかったかもしれませんね。とは言え、現代の我々としては安土城の内部がわかることは非常に価値ある事で、牛一は歴史的には大きな活躍をしていると言えるのではないでしょうか。

ところで、そんな牛一ですが、右筆をしたり、いろんな記録や書物を残したりと、すごく優秀な文官的イメージがしませんか?しかし、実は牛一は非常に優秀な弓の使い手だったのです。柴田勝家の陪臣から信長の直臣になったのは弓の腕を認められてのことだったと言います。また、信長の家臣の中から弓上手と槍上手を各3名集めて六人衆というものを作ったことがあったのですが、牛一はその弓3名に選ばれています。私も最初は「信長公記の作者」という覚え方をしていたので、これを知ったときは非常に驚きでした。

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