文覚 源頼朝に挙兵を決断させたドクロとは?


源頼朝と言えば、隆盛を極めた平家倒し、鎌倉幕府を開いた偉人です。教科書にも出てくる日本史上の重要人物です。そんな頼朝も苦難の人生を歩んでいます。そして頼朝を支えた一人でもある文覚という僧侶がいるのをご存知でしょうか?

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伊豆へ流された頼朝と文覚

平治の乱に初陣して敗れ、伊豆蛭ヶ小島に流された頼朝はそこで20年間という長い期間を過ごし、1180年に“兵士討伐”を掲げて挙兵しました。その挙兵の陰に一人の僧がいたのです。それこそ真言宗の僧・文覚です。文覚は元々鳥羽天皇の皇女に仕える侍でした。そして出家後に全国の山や寺で荒行をしてきたと言います。真言宗と言えば今でも千日回峰行などの荒行をする宗派として知られていますね。

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このような特異な生き方からか、分覚は不思議な説得力を備えた修験僧として知られるようになりました。『平家物語』の「福原院宣」によると、文覚が頼朝と出会ったのは伊豆に流されたときとあります。文覚は神護寺再興を後白河法皇に強要したために伊豆に流されていたのです。奇しくも2人とも伊豆に流罪されていたわけです。そしてそれが後には歴史を動かすことに繋がっていくのです。

 

説得に応じない頼朝への最終兵器“どくろ”

 

文覚は伊豆で平家打倒の挙兵を強く頼朝に促しました。文覚が平家打倒を訴えたのは、その時代の“国家仏教”の時代背景が窺えます。当時の文覚は「仏法と政治は結びつきあうことで互いに繁栄できる」という思想を持っていました。そして後白河法皇の仏教に対する信仰も篤く、その法皇を幽閉してしまった平家一門は文覚にとって仏敵だったと思われます。

頼朝に出会った文覚は「早く挙兵して全国を治めなさい」と説得を始めましたが、頼朝はすぐには首を縦に振ろうとしませんでした。自分の罪が許されない限り平家に刃向かえないというのです。そこで文覚は懐から白い布に包まれた“あるもの”を取り出しました。それはなんと頼朝の父・義朝のドクロだったのです。

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「あなたの父の頭です、これを首にかけてずっと修行をしておりました。義朝公はあなたが立ち上がるのを願っていますよ」と言い、「あなたの流罪の許しを願い出て院宣を頂戴してきます」と言い残して、京都との間を僅か7日で往復して法皇の院宣を持ちかえったと言われています。

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頼朝を納得させた文覚の説得術

しかし、7日で伊豆と京都を往復し院宣を持ち帰ることは明らかに辻褄が合いません。そのためこのエピソードは「福原院宣」の作者によるフィクションとされているのですが、頼朝が挙兵するために文覚の説得が大きなきっかけになったのは確かと言えそうです。荒行を乗り越え巧みな説得力を身につけた文覚、後白河法皇への神護寺再興の申し出は失敗しましたが、頼朝への説得は大成功となったのです。

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文覚のその後

頼朝は平家打倒の挙兵を決意、治承・寿永の乱が起こります。文覚は頼朝や後白河法皇の庇護を受け、各地の寺院を修復して回ることになりました。その後、頼朝は平家を滅ぼし鎌倉幕府を興しし、源氏の世がやってきました。しかし、征夷大将軍となりこの世の春を謳歌していた頼朝も1199年にこの世を去ってしまいます。すると文覚は後鳥羽上皇から“謀反の意志あり”と疑われてしまい、今度は対馬へ流罪となりました。文覚の寺領は悉く院の近臣や女房に分け与えられてしまい、そのころ没頭していた神護寺復興事業も志半ばで断念することになります。

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結局、文覚はそのまま客死してしまいました。一世一代の説得術で強い結びつきを持った頼朝との関係こそが、文覚にとっても生命線だったということになります。権力者に近くなりすぎると、権力が移ったときに邪魔者扱いされてしまうことは、日本史に限らず世界史でも非常に多くの例があります。どこで身を引くか、一歩引いておくかが己の身を守る術になるのでしょう。

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