軍師官兵衛 九州制圧計画は天下を狙った最後の賭けだった?


戦国時代の名軍師と言えば、誰が思い浮かぶでしょうか?山本勘助、島左近、太原雪斎、竹中半兵衛、黒田官兵衛など多くの武将が思い浮かびます。その中でも大河ドラマで盛り上がった黒田官兵衛は今一番旬な軍師と言えるかもしれません。

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秀吉の右腕、急造軍で挙兵

徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が天下を争った戦いがありました。そう、もちろん天下分け目の戦いと言われる関ケ原の戦いですね。実はこの戦に乗じて天下を狙ったと言われる武将がいるのです。この武将こそ黒田官兵衛(如水)です。豊臣秀吉の側近として多くの功績を残した股肱の臣と言える武将です。明智光秀との山崎の戦い、九州征伐など多くの重要な合戦に参加して秀吉に勝利をもたらせてきた名軍師です。

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さて、この官兵衛、秀吉が死去した年に上洛し伏見の屋敷に居住しました。この頃に官兵衛が吉川広家に宛てた手紙には「天下の大乱が起こる」と予想していたと思わせる記述があります。この上洛は東西の情勢を読み取るためのものだったとも考えられます。そして迎えた1600年7月、三成挙兵の報せを受け取った官兵衛は領内の兵士農民をかき集めて9000人の急造軍を作り上げました。当時の黒田家は中津12万石程度、しかも嫡子長政が主力を連れて関が原に出向いていたため、ほとんど軍を編成できるような状態ではなかったはずです。官兵衛は今まで節約して溜めてきた財を粋に放出し、徴兵したと言います。それが9000人なので、官兵衛の情勢の読みは的確かつ、準備も万全だったのでしょう。官兵衛の目論見は大戦によって両軍が疲弊したところを狙うつ作戦だったのです。

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長期戦になるはずが・・・

1600年9月、居城の中津城を出た官兵衛は5日足らずで豊前全土をを制圧、そのまま豊後へ兵を進め、大友軍を撃破、豊後での主導権を手中に収めました。そんな折に思わぬ誤算が発生しました。長引くと思われた関ケ原の戦いがわずか半日で終わってしまったのです。戦いの前に双方が準備した兵力や兵糧からすれば、そんなに早い決着は誰しも予想していなかったことでしょう。

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西軍敗報を受けた官兵衛は、家康に対抗できる力を付けることに方向転換します。家康に領地切り取り次第を申し入れ、西豊後の諸城を次々に陥落させ、筑前、筑後、肥後にまで進撃ていきました。九州最大勢力の島津義久討伐へ向かった際には、加藤清正、鍋島直茂、立花宗茂らも官兵衛軍に加わっており、4万を超える兵力になっていました。そうそうたる顔ぶれです。しかし、家康と島津義久の和議成立による停戦命令を受け、矛を収めて居城に帰還しました。

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虚しく散った最後の賭け

関ケ原の戦いの後に吉川広家に宛てた手紙には、「戦いがあと1か月も続いていれば中国地方にまで攻め込んで華々しい戦いをするつもりだったが、家康の勝利が早々と決まってしまったために何もできなかった」と記しています。九州を制圧し、中国地方まで勢力を伸ばせば、東西の勝利者に対抗できると思っていたのでしょう。実際、それだけの勢力があれば十分可能だったかもしれません。

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一方、東軍で大活躍を治めた嫡子長政は備前52万石を与えられ、悠々と凱旋。12万石から52万石ですから、破格の出世です。しかし、天下を狙っていた官兵衛はそんな長政に八つ当たりをしたという説があります。

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