小早川秀秋 優柔不断、無能の評価は間違い?


小早川秀秋と言えば秀吉の血縁なのに関ケ原では東軍に寝返った武将として有名です。関ケ原の戦いの最中に西軍を裏切り、東軍に勝利をもたらせたのですから。その印象が強いためか愚鈍で卑劣な裏切り者というレッテルを貼られてしまっています。しかし、近年になって実は有能な武将だったのかもしれないという説が浮上しているのです。

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政治面では改革に積極的

まず実績として残っているのは政治面です。関ケ原の後岡山城に入場した秀秋は、急速に近代化を進めました。わずか20日で完成させた外堀“二十日堀”のほか、検地の実施、寺社領の再整備などその治績は意外なことに非常に多岐にわたり数も多いのです。しかし、不運にも在封わずか2年足らずで没してしまったため、大きな評価を得るには至りませんでした。

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躊躇したのも優れた戦術眼かも

kuroda戦の面では総じて評価が低い秀秋ですが、それも疑問が残る部分があります。秀吉の朝鮮出兵に参陣した際に秀秋は自ら敵陣に斬りこんで10以上の首級を挙げたのですが、これを秀吉に「大将として軽率である」として叱られ、領地を没収されてしまいます。秀吉の言うことはもっともではあるのですが、この時秀秋は16歳前後です、若くして勇猛果敢に戦ったと評価されても良いところです。秀秋も血気盛んに戦って意気揚々としていたところに、大叱責ではかなり気勢をそがれたことでしょう。

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また関ケ原においては東軍に寝返るのをためらい、家康がしびれを切らして鉄砲を秀秋の陣に撃ち込み、それでやっと秀秋が決断して行動したとなっています。しかし、秀秋が寝返りを躊躇したのは、西軍が疲弊するのを待っていたとは考えられないでしょうか?大奮戦していた大谷吉継の側面を突いたことで西軍が浮足立ち、寝返る諸将も相次ぎました。結果としては大成功です。もし早々に寝返っていたら、西軍としても戦い方を変えますし、もしかしたら被害の小さい時点で見切りをつけ、退却もあったかもしれません。そうなると西軍の壊滅的な敗北とはならず、東西軍の緊張はもっと長期化したかもしれません。東軍の勝利は秀秋の寝返りによるものが大きな要因ですが、大勝利はその寝返るタイミングだったと言っても過言ではありません。もし、これを計算していたとしたら無能どころか非常に高い戦略眼を持った武将と言えますよね。

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生涯たった2度の戦なのです。この結果から秀秋が無能愚鈍と判断するのは早計過ぎる気がしますね。

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