慈照寺銀閣 なぜ輝いていないのか?銀箔がないのに銀閣?


足利氏の室町時代のなかで、金額時と銀閣寺と言えば時代を代表する建物ですね。教科書にも出てくる非常に有名な建物です。北山文化・東山文化という文化の中でそれぞれの文化を象徴する建物と言えるでしょう。

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銀箔が貼られていない銀閣寺

「足利義満の金閣寺があれほど美しく輝いているのだから、足利義政の銀閣寺もさぞ素晴らしいことだろう」知らない人が思いがちな考え方ですよね。かくいう私だって名前を聞いただけでどっちもピカピカに輝いていると思い込んでいた時期がありました。しかしそんな考えで銀閣寺に行くと、気抜けしてガッカリすること必至です。銀閣寺はまったく輝いていないのですから。では銀閣寺には銀箔が貼られていないのでしょう?ちょっと不思議と思いませんか?

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現在の形こと完成系と思うべし

義政が銀閣寺の造営に着手したのは1482年のことです。ところが「応仁・文明の乱」の直後ということもあって、財政難が続き、なかなか工事は進みませんでした。2年後に禅室の西指庵ができ、翌年には持仏のある東求堂がようやく完成、そして観音殿が完成し、銀閣寺の上棟式が行われたのは、1489年で着手から実に7年後のことでした。

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こうした経緯から「義政は金閣寺に対抗して銀箔を貼るつもりだったが、財政難のため実現しなかった。未完成のまま現在の形となった」とする説が有力です。実際にそう聞いたり習った人も多いことでしょう。もちろん私も、中学時代に授業では先生がこぼれ話みたいな感じで同じことを話していた記憶があります。しかし、実は“銀箔を貼る予定だった”という記録はどこにも残されていないのです。後世の人が勝手に作り上げた想像に過ぎない可能性があるのです。

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事実、義満が建てた金閣寺は義政にとっての政庁でもありました。一方で、銀閣を含む東山山荘からは政治からの避難場所、いわば避暑地だったと言います。現代風に言えば、別荘とでも言えばイメージしやすいかもしれません。しかも、『銀閣寺』の名称は攻勢になってから付けられた俗称に過ぎず、もともとは2階に観音像が安置されていることから、観音殿と言われていたのです。

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ということは義政は最初から銀箔を貼るつもりなど全くなかったと考えるべきで、そもそも銀箔など必要がなかったと言って良いのではないでしょうか。そもそも東山文化は豪華絢爛な北山文化と異なり、質実剛健・質素な文化として定着していますので、そんな時代背景の中で銀箔を貼る必要はなかったのではないかと考える次第です。

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もしかしたら、義政はそんな時代の中でも、本当に金閣寺に対抗しようとした可能性はなきにしも非ずですが、ちょっと無理があるのかな、というのが私の考えです。皆さんはどう考えますか?

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