意外な親子 秀頼と天草四郎の知られざる関係とは? 


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1Tamatsukuri-Inari-Jinja_Toyotomi_Hideyori615年、大坂夏の陣で母の淀君とともに自刃したとされる豊臣秀頼ですが、彼には生存説が残っています。源義経や明智光秀など、生存説が残る人たちの中に秀頼も入っていたのですね。大坂城落城直後から「秀頼は生き延びているのでは」とする噂がまことしやかにささやかれていたそうです。

その理由は、脂肪の瞬間を目撃したものが皆無で、死体も発見されてないことです。そのため、秀頼は死んでおらず、大阪城を抜け出して九州薩摩へのがれたのではないか、と考えられたのです。この噂を裏付けるかのように大坂城落城後に上方では「花の様なる秀頼様を、鬼のような真田が連れて退きも退いたよ鹿児島へ」という内容の童歌が流行したと言います。51VNQ7H0HVL更にジャンクラッセの“日本西教史”には「母妻をともなって辺境の大名領地へ落ち延びた」、“リチャードコックス日記”には「薩摩・琉球に逃げた」とあるなど、当時から秀吉恩顧の武将や大名たちによりひそかに救出され落ち延びたと考えられていた様子が伺い知れます。また、九州各地に秀頼の墓、秀頼ゆかりの地、秀頼伝承などが数多く残っていることからも秀頼が生き延びて九州に逃れた可能性は否定できないところかもしれません。実際、秀吉恩顧の武将たちからしたら、現実的に難しいとはいえ、もし秘密裡に助け出すことが可能であれば、是が非でも助け出したいと思う人たちは大勢いたことでしょう。

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urabanasi

さて、秀頼の生存説には続きがあります。日本史上最大級の一揆である島原の乱。教科書にも出てくるようなメジャーな一揆なので、名前くらい聞いたことがある人も多いでしょう。島原の乱の一揆がわのリーダーが天草四郎時貞であるのも有名です。この天草四郎がなんと九州に落ち延びた秀頼の遺児だという説があるからちょっと興味沸きませんか?鹿児島では天草四郎に“豊臣秀綱”という名前があったと伝えられており、それを記す寺院の古文書も存在したと言います。もっとも、言い伝えであって、実際にその古文書が現存しているわけではないのですが、ちょっと面白い説であることは間違いないですね。

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21aaa9e4秀頼が天草四郎の父であるとされる最大の根拠は、戦時の馬印です。馬印は大将の所在を示すために立てられるのぼり・目印です。秀頼の父である、豊臣秀吉の馬印が千成瓢箪であることは有名ですが、天草四郎もこれと同じ馬印を使っていたと言われています。天草四郎の時代からすれば、豊臣秀吉と言えばほんの40年程度前に大成功を収めた偉大な伝説者と言えます。そんな秀吉と同じ馬印を使うなど、なかなかそう簡単にできるものではありません。こういうところからも天草四郎が豊臣家ゆかりの人物ではないか、という説が支持される背景でしょう。そう考えると宗教戦争と捉えられがちな島原の乱も全く別の意味合いが出てくると思いませんか?

島原の乱を制したのは幕府軍ですが、筆頭老中の松平信綱という大物までが出陣登場しています。いくら大きな乱とはいえ、地方の一反乱に過ぎない島原の乱を治めるにしてはあまりにも仰々しいような気もします。もし天草四郎が本当に豊臣末裔の人物だとすれば、この大げささも理解できます。つまり、島原の乱は「豊臣VS徳川」の側面もあったということですね。

本当のところは分かりませんが、皆さんはどう考えますか?

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