桶狭間の真実 伝承から考えると戦場は二つだった?


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織田信長が東海一の弓取りと言われた今川義元を破った桶狭間の戦いは非常に有名な合戦だと思います。圧倒的な勢力差を誇る今川軍に対して圧倒的不利な状況で信長は立ち向かい、それを破ったわけですから、日本人の気質として好きな状況でもあるので、歴史に疎い人でも名前くらい知っている聞いたことがあるというのはある意味当然なのかもしれませんね。ちなみに桶狭間とは広いエリアを指す名前で、実際に義元がいて、一番激しい戦いになった局地を田楽狭間と言います。なので、一部の人の間では田楽狭間の戦いとも言われています。しかし、面倒なので、ここでは桶狭間で通しておきます。

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10さて、1560年5月19日、25,000の大軍を擁する今川義元は、わずか2,000の織田軍に敗れ敗走してしまいます。今川家滅亡の契機となったこの合戦が世に言う「桶狭間の戦い」です。桶狭間の戦いの古戦場と言われる場所は、現在の愛知県豊明市栄町南館という場所にあり、石碑も建てられています。しかし、実はもう1か所桶狭間古戦場とされる場所が存在するのです。

20140903000740db6その場所は同じ愛知県の名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園で、こちらも同じく石碑が建っています。隣りあわせでもないこの2つの場所、一体どちらが本当の古戦場なのでしょう?古戦場が2つもあるってちょっと感覚的に違和感感じる部分かもしれません。「どっちかがウソの古戦場じゃないの?」と思う人がいてもおかしくありませんよね。実際どうなんでしょうか?

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結論から言うと、どちらも桶狭間古戦場だったといえます。その理由は合戦当日の今川軍の行動から見て取れると思います。沓掛城を出発した今川軍は大高城を目指して地方道を進んでいました。ところが、途中の沓掛と大高のちょうど真ん中にあたる桶狭間山で昼食休憩を取っていた時、織田軍から奇襲を受けたのです。不意を突かれた今川軍のうち、ある者のは来た道を戻って沓掛城のほうへ逃げ、またある者はこれから向かうはずの大高城へ逃げたのです。つまり、今川軍は二手に分かれてそれぞれ織田軍を追撃したのです。もちろん、総大将の義元が討ち取られたとは知らないままに、一生懸命戦ったわけですね。

burokkori-c141021L一度も「こっちが本物の桶狭間古戦場だ」などという本家争いが起きてないのも当然なわけです。どちらも本当に桶狭間古戦場ってことですから。合戦に臨む両軍がぶつかる合戦では戦いはあちこちで発生するので、古戦場があちこちにあって複数あるのも不思議ではないってことですね。一般的にこれらの局地戦を総称して合戦の名前となっているってことです。特に数千数万の軍がぶつかる大規模な合戦になったらそれこそ局地戦は相当広いエリアで発生することになるのはちょっと考えれば納得ではないでしょうか。

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