田楽狭間 圧倒的優勢だった今川軍敗北は義元の油断なのか?


今川義元と言えば「公家かぶれ」「胴長短足過ぎて馬に乗れない」など悪評がついて回る武将なのですが、当時の大名の中では一、二を争う戦力を誇る、天下人に最も近い存在だったと言えます。

puw02_main

スポンサーリンク
>

あまりよくない評判で今も言い伝えられる義元ですが、彼がどれほどの人物だタカ派、内政・外交手腕を見れば、その英傑ぶりも良く分かるというものです。内政面では、今川家に伝わる【今川仮名目録】という家法に追加した21箇条、のちに諸大名や家臣が守るべき規範の一つになるなど、大変優れたものだったそうです。

58e14f04ebd45a5cd0a582721dfa4586-1thEMBTYQ20

外交面では武田家と北条家と同盟を結んだことからそのすごさが浮き彫りになります。甲斐の虎の異名をとる武田信玄は言うに及ばず、相模の虎の異名を持つ北条氏康も戦国時代にその名を残す一角の人物です。こうした傑物たちと肩を並べることができたのは、義元が優れていた証拠と言えるのではないでしょうか。本当に義元が無能な人物だったら、武田信玄や北条氏康も同盟国として義元を選ばないでしょう。

sengokudaimyoue_02後に天下を取らんとする織田信長が尾張を統一したのは1559のことですが、これを知った義元は躊躇うことなく、尾張へと進軍します。それもそのはず、当時の今川家と織田家の戦力にはあまりにも大きな差があったのです。信長から見れば兵力差は1:10ほど、実に10倍以上の戦力を誇る相手に信長は立ち向かうことを余儀なくされたのです。普通に考えれば勝てるわけがないですよね。義元からすれば信長を倒すことなんて赤子の手をひねるようなものだったでしょうし、実際にそうだったはずです。信長も今言われるように、勝てる自信や策など本当はそこまでなかったのではないかと思うくらいです。つまり、信長にとっては敗北必死の戦だったと思うのです。現に織田軍は城砦を次々と陥落させられ、後がない信長は熱田神宮に参拝しました。“決起”とされるこの熱田神宮参拝ですが、本当のところは神頼みだったのではないでしょうか。

スポンサーリンク
>

okehazamaroot

ところが、義元が思いもよらない隙をみせます。圧倒的優勢に気を良くした義元は、田楽狭間の近くで酒宴を開いてしまったのです。神頼みの甲斐あってか、この情報をいち早くキャッチした信長はすぐさまその足で進軍を開始、不意を突かれた義元は為す術なく討ちとられてしまいました。まさに英傑たる義元の油断と最後まであきらめずに強い意志でもがく信長の差が出たということなのかもしれません。

04_okehazamakosenjyoukouen総大将を失った今川軍は敗走、以後衰退の一途を辿ることになります。この桶狭間の敗北によって義元には愚将のレッテルがついて回るわけですが、それは極論というものでしょう。戦の敗北どころか討ち取られているのは紛れもない事実で、戦国大名としては勝ってナンボのもの、多少の尾ひれがついてしまうのは已む無しの部分もあるでしょうが、だからと言って義元が暗愚だったとするのは早計だと思います。

04_okehazamakosenjyoukouen本来であれば、信長はここで天下の夢を絶たれていた可能性が高いのです。いや、むしろこの頃の信長はそんな夢さえ持っていなかった可能性が高いと思います。それだけ隣の今川家は強力で、その今川に対抗する手段など思いつかないくらいの勢力差だったはずです。義元が致命的なミスをしでかした「桶狭間の戦い」が少し違った方向、というより本来の方向に進んでいれば、そのあとの歴史もガラリと変わったものになったことでしょう。信長から見れば桶狭間の戦いこそが「天下分け目」の戦いだったのです。

スポンサーリンク
>