直江兼続と伊達政宗 二人は犬猿の仲だったのか?


戦国時代後期に活躍した武将として知られる直江兼続と伊達政宗。2人とも非常に人気の高い武将で、どちらも大河ドラマにもなりましたね。

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上杉家家臣として上杉景勝の側近を務めていた兼続は徳川家康を激怒させた「直江状」の筆者としても有名で、マジメで義と愛に熱い人物だったと言われています。兜の鍬形に“愛”の文字を掲げていたのは有名ですよね。もっともこの愛はLOVEではないのですが、ここではそれは置いておきます。一方対する政宗は伊達家から奥州きっての戦国大名にのし上がった人物で華美な様相を好む派手な人物と言われています。伊達男という言葉が生まれているくらいなので、その葉で好きは推して知るべきでしょう。とは言え、愛の兜も結構派手ですけどね・・・!(笑)

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いかにも性格的には噛み合わなさそうなこの2人、やはりというか実はというか仲の悪さを示すエピソードがたくさん残っています。代表的なエピソードをいくつか紹介しながら2人の関係を探ってみましょう。

kanetugu111兼続が景勝の名代として大坂に上がった差しに大名が集まる間で政宗が大名たちに天正大判を見せびらかしていました。やがて兼続のところにも大判が回ってきたのですが、兼続はそれを素手で触らず開いた扇子に乗せて眺めていました。それを見た政宗は兼続が遠慮しているのかと思い、「苦しゅうない、手に取られよ」と声をかけたのですが、兼続の口から返ってきた言葉はとんでもない一言でした。「ご冗談を。不肖兼続の右手は先代謙信の代より上杉家の采配を預かる身。左様に不浄なものに触れるわけに参りません」言い方は慇懃ですが、簡単に言えば「こんな汚いものに素手で触れるか!」と言ったところでしょうか。そして兼続は大判を政宗の膝元に投げ返してしまったのです。

陪臣の身で大名たちの集まりに参加している中で、この憮然とした態度、政宗も周りの大名たちもさぞかし驚いたことでしょうね。マジメさの表れと考えれば理解できなくもないですが、身分の違いと一定以上の公の場で政宗に喧嘩を売るようなこのエピソード、兼続が相当に政宗を嫌っていたことが表れているのではないでしょうか。

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後年、江戸城で兼続と政宗がすれ違ったときのことです。兼続は素知らぬ顔で政宗に挨拶もしませんでした。身分は政宗の方が圧倒的に上です。さすがの政宗もこれには怒り、「陪臣の身で大名に会釈しないとは無礼ではないか」と咎めると、兼続はこれまた冷静にこう答えたのです。「これはご無礼いたしました。これまで私は中納言殿とは戦場で相まみえる間柄っだったので、戦場から逃げていく後姿しか拝見したことがなく、お顔を存じ上げませんでした」と。

20170423204422なんという無礼極まりない発言でしょうね・・・。天正大判のときはまだしも、こ発言は明らかに政宗に対する敵愾心が表れていますよね。やっぱり兼次は一方的に政宗を嫌っていたのでしょう。おそらく、質素を常としている兼続としては、派手好きな政宗が気に食わなかったのでしょう。もちろん、こんな言葉を掛けられた政宗は大激怒です。しかし、ここで兼続を責める行動を起こせば天下に政宗の評判は「器が小さい」と思われかねません。大身の大名として、政宗は何の行動も起こしませんでした。ただ、以前にも増して政宗は兼続のことを嫌いになったのは間違いないでしょうね。そもそも兼続にしても礼儀も教養も身分も高い武将なので、政宗に会釈しないといけないことくらい百も承知のはずです。それが出来ないというところに相当の反骨心が垣間見えますね。

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兼続も大判の時も江戸城の時も、それを見抜いて敢えて計算ずくで政宗に一矢報いようとしてたのかもしれません。どちらも天下に名が売れた有名人なので、この2人のやり取りは結構大名間や世間でも噂になっていたんでしょうね。史実は分かりませんが、こんなエピソードが残っているところからも、2人は将にお手本のような犬猿の仲だったということができるのかもしませんね。

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